海老名、矢内原両氏と天皇

「神」は和訳語としては普及してはいるが、海軍の軍人だった神 重徳すなわち鹿児島出水市の神酒造の一族のように「神」を姓とする者もあるので不適当であり、「天父」とか「天主」の方がまだまし。そもそも「神」はもともと中国語で、人間の霊魂を意味し、普通にいう「神」に相当するものは、中国語では「帝」であり、「上帝」は天に住んでいる神を意味した。日本語の「カミ」は記紀にあるとおり「迦微」とも書かれ、その意味は本居宣長の『古事記伝』巻三の説明では、「尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて可畏(かしこ)き物」とあり、「かしこい」とは「恐るべき」の意(~『新しい神観の探究』〔星雲社〕p7172)。

 

●大乗仏典における「仏」の神格化に関して
<阿弥陀に対する崇拝は、それまでの仏教史になかった種類のものです。『ギーター』が浄土教と歴史的な関係があったか否かは今置くとして、後世、汎インド的なレベルで密教がインドに広がるのと同じように、ヒンドゥー教のみならず仏教においても紀元前後から二世紀頃までにバクティ運動が起きたと推定されます。インド初期浄土教の基本経典のひとつである『阿弥陀経』は二世紀頃の成立といわれていますが、阿弥陀崇拝の内容は、それ以前の仏教に見られたブッダ(シャーキャ・ムニ、釈迦)への崇拝とはかなり異なっています。「ペルソナを有する聖なるもの(人格神)との交わりによる精神の救済」ともいうべき阿弥陀崇拝は、戒律を守り、業と煩悩を滅して悟りへと至るというような実践形態とは異なったものです。阿弥陀のようなバクティ崇拝の対象になる仏が現れたということが大乗仏教の一つの特徴でありましょう。いささか乱暴な言い方をするならば、大乗仏教とそれ以前の仏教との重要な違いはゴータマ・ブッダに対する崇拝と、例えば阿弥陀仏のような「人格神」に対する崇拝の違いだと思います。
紀元前二世紀頃から紀元二世紀頃の時期には、ヒンドゥー教や仏教のみならず、キリスト教においてもこの新しい崇拝形態、つまり、「人格神との交わりによる精神の救済」が生まれつつありました。つまり、インド世界を超えて世界的なレベルにおいて宗教の変革が行われていたのです。ドイツの哲学者カール・ヤスパースがブッダ、ソクラテス、孔子、イエスを含む時代を「枢軸の時代」と名付けたことはよく知られています。彼のいう「枢軸の時代」の前半と後半において大きな変革があったと考えられています。ヤスパース自身は「枢軸の時代」におけるこのような変化について述べているわけではありません。しかし、「ゴータマ・ブッダから阿弥陀への変化」はヤスパースのいう「枢軸の時代」の中で特筆すべき大きな変化であったといえます。>(立川武蔵著『仏はどこにいるのか マンダラと浄土』〔せりか書房〕p140141)※「バクティ」については、<人格を有する聖なるもの、つまり「神」との交わりによって精神的な救いを得ようとする崇拝形態>がこれに当たり、「帰依、献愛、献信」を意味し、「インドにおいて紀元前二、三世紀頃」に「新しい崇拝形態、あるいはその萌芽が見られ」、「紀元一、二世紀頃」に「はっきりとしたすがたを採る」ようになった「崇拝形態」であり「仏教のみならずヒンドゥー教をも巻き込んだ汎インド的な運動であった」といわれ、阿弥陀信仰を指して「バクティ」とみなすことは、これが阿弥陀経及び初期大乗仏教経典の基礎的用語ではないので反論を予想した上で、「汎インド的観点から見るならば、初期大乗仏教における阿弥陀崇拝はバクティの一形態であるといえましょう。」と言われています(同、p139)。
<この二世紀頃、仏教は汎インド的伝統であるバクティ運動を自らの教義に取り込みます。ヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』や初期浄土教の聖典『阿弥陀経』には、バクティ運動からの多大な影響を見ることができます。バクティの本質は、人格を持った崇拝対象との交わりです。「神との交わり」のためには、ブッダは象や猿のすがたのままではいられなかったのです。ヨーガの実践にあっては、人格をもった神格は基本的には必要ありませんが、浄土教やヴィシュヌ教においては、人格をもった神との対話、交わりが必要となり、それが信仰の核心となります。個人的な精神的救済を問題にする宗教以外の宗教ではバクティは成立しません。
ようするに個人の信仰を深める宗教実践の在り方が、二世紀あたりで大きく変質したのです。仏塔のみでは不十分でした。人間のすがたを採ったイメージや像が必要でした。この時期において人格を持った崇拝対象との交わりといった仏教運動が出現したということは、今日、われわれが仏教を考える際には決定的に重要なことです。キリスト教の人々が特に真宗に興味をもったのも、まさにこの点なのです。つまり、人格神との対話はキリスト教信仰の中核ですが、浄土教においても阿弥陀仏との対話、交わりが大きな位置を占めます。これがキリスト教徒にとって自らの教義と近いといった印象を与えたのです。マトゥラー仏やガンダーラ仏が出現したから人格を有する仏との対話が可能になったといっているのではありません。むしろその反対です。仏というものを人間の姿で思い描いてもよいという状況が生まれ、そしてそれを人に話してもゆるされるという状況があった、それゆえに、ブッダ像の造形運動ができたのだと思われます。ともあれ、ブッダ像の変化に象徴される仏教思想の大変革は、後世の密教の発展した時代まで続くのです。>(立川武蔵著『仏とは何か』〔講談社選書メチエ〕p13940
また、阿弥陀仏信仰(=浄土教)については以下のとおり。
<ガンダーラやマトゥラーにおいてブッダやヒンドゥー教の神々のすがたが人間に似たすがたで表現され始めた頃、つまり、紀元一~二世紀頃から、「人格神への崇拝」という宗教運度jの大きなうねりがインドを覆います。バクティ(帰依、献信、献愛)と呼ばれる運動です。この時期、インド仏教においても、人格を有する聖なるもの、例えば、阿弥陀といった存在に対する崇拝や帰依が盛んになります。このような仏教における動向は、当時汎インド的に起きたバクティ運動の一環です。仏教における「人格神への崇拝」の運動がヒンドゥー教におけるバクティ運動に影響を与えたという側面もあったと考えられます。ユダヤ・キリスト教世界において神は人格を有する存在です。ユダヤ教徒、キリスト教徒にとって神との人格的関係は、信仰の中核です。しかし、神が人格を有しているということはただちに神が人間に似た(アントロポモルフィック)イメージで表現されることを意味するわけではありません。イスラム教においてもユダヤ教においても、基本的には神は人間と同じ姿には描かれません。しかし、イスラム教の神も、ユダヤ・キリスト教の神も、人格(ペルソナ)を有しています。一方で、ゴータマ・ブッダは自分を「渡し守」であるといわれましたが、「私が神であるから私に至れ」とはいわれませんでした。ヒンドゥー教におけるクリシュナ(ヴィシュヌ)に該当するような、宇宙を維持する根本原理としてのブッダというイメージも、少なくとも初期仏教の段階では認められません。そもそも仏教はその当初において人格神の存在を否定してきました。ヴィシュヌやシヴァに似た人格神に帰依するといったようなことは、少なくとも初期仏教においてはありませんでした。浄土教は阿弥陀仏信仰を基本にしています。阿弥陀は、シャカ族の太子ゴータマ・シッダールタのような歴史的存在ではありません。帰依の対象となります。ゴータマ・ブッダとの同一性に裏付けされつつイメージと人格をともなった聖なる神的存在です。「神との交わり」を本質とするこのような「人格神」への崇拝は、現在の日本において浄土真宗、浄土宗に受け継がれています。そもそもゴータマ・ブッダは人間であったわけですから、人格をともなった聖者への崇拝は、仏教の投書からあったのではないかと思われるかもしれません。初期仏教経典のうちもっとも古い層においても、ブッダはすでに普通の人間とは異なった存在と考えられていました。ですが、すくなくとも、救済者としての仏への帰依という信仰形態は、仏教が当初から持っていたものではありません。インド中期仏教の初めを象徴する阿弥陀信仰は、紀元一~二世紀には成立しています。阿弥陀仏に帰依するというかたちの信仰を基として浄土教が成立しました。浄土教が基づく『阿弥陀経』や『無量寿経』といった経典の成立の時期は、神ヴィシュヌへのバクティを薦めるヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』の成立時代とほとんど同じなのです。浄土教はインドで生まれたのですが、インドでは日本におけるような宗派が生まれたわけではありません。この『ブッディスト・セオロジー』においては、「浄土教」という語によって、インドやチベットにおける浄土思想を指す場合、日本における浄土真宗や浄土宗に代表される崇拝形態を指す場合、さらにはその両方を指す場合があります。>(同、p2022
<初期仏教においてブッダはあくまで人々の師であり、人間以上のものではありませんでした。大乗仏教においてブッダは、崇拝対象としての「神的存在」となりました。「神的存在」となったブッダ(仏)は、仏教徒ひとりひとりが精神的救済を求めようとする際、人が「交わり」を有し得る相手でもありました。「交わり」あるいは対話が可能であるという意味において、阿弥陀仏、大日如来などの大乗の仏たちは「ペルソナ」(人格)を備えた仏ということができます。浄土教における阿弥陀仏は、師というよりは救済者というべきでしょう。>(同、p12

 

  

「日本の教育がキリスト教信仰を天皇信仰に置き換えて取り入れられていることを内村鑑三は批判しているのである。これは何も教育に限ったことではなく、明治憲法もキリスト教の神を、天皇に置き換えて制定されたたため、以後天皇は絶対神(古来から日本の神々に絶対神は存在しなかったのであるが)として信仰されるようになったのである。」(~深津容伸氏の論文「日本人とキリスト教」)

 

  

<「宗教の最高発展形態たる一神教」という言葉から、矢内原が宗教進化論的なものの考え方をしていたことがうかがえる。その前提にたって、短所を克服するためには、人格的な神を認める必要があるとする。(中略)絶対者かつ人格者である神を認めなければ、神と人との区別がなく、「名は神ながらと呼ばれようとも、実は人ながら」に陥ってしまうと矢内原は主張する。(中略)矢内原は、このような神と人とをはっきりと区別できない日本人の神観から、「天皇神性と人性との関係の不明確」が生じ、現人神としての天皇崇拝が横行したと考えていた。しかし、矢内原は、日本国民が現人神として天皇を崇拝していることに、「日本国民思想の特殊性」を見出してもいた。(中略)矢内原は、天皇を人間と言いながらも、神の経綸の中に天皇を位置づけていた。この点については色々と議論のあるところだが、私には、矢内原は、天皇をキリスト教の神の経綸の中に位置付けられた「特別な人間」として見ていたとするのが適切であるように思われる。(中略)矢内原はまた、そのように「宗教性」に特殊性を持つ国民には、その「国民が尊崇する神霊即ち宗教的尊崇の対象如何」という問題が生じると述べる。なぜなら、これまで見てきたような、神と人の区別がなされていない日本人の神観では、人を神として崇める危険性が存在するからである。実際に、天皇が現人神として崇められていた当時においては、その危険性が表れていたのは明らかであった。矢内原は、この危険性を克服するには、絶対者かつ人格者である神、つまりキリスト教の神を受け容れなければならないと主張する。日本人の神観の危険性を克服するには、キリスト教を冷遇していた、これまでの日本の態度を改め、「正しき信仰正しき神観をもつべき」であるというのである。(中略)矢内原は、天皇の詔書を根拠にし、日本国民がキリスト教を受容するべきであると訴えた。矢内原は、キリスト教を受容して「正しき神観」を獲得することによってのみ、日本を復興できると考えていたのである。そのさいに、矢内原が、天皇自身は現人神として崇められることを望んでいなかったと考えていたことは、注目に値するであろう。(中略)注意しておくべきことは、矢内原が、このような「天孫降臨の神勅」を下した天照御大神の背後には、キリスト教の神の経綸が働いていたと考えていることである。天孫降臨の神勅を基督教の立場から見てどうなるか。・・・・・・日本民族成立の当初にあつては、エホバの神は之に対し直接に己を顕し給ふ段階に到達してゐなかつたのであるが、その背後に於て、その根底に於て働いてをるものは、やはり唯一絶対のエホバの神の経綸である。 矢内原は上の文章の直後に、「各民族の神話に含まれる永遠的意義ある理想は、宇宙的普遍的な絶対神の民族的歴史的なる顕現である」と続けており、全ての民族にその働きの存在を認めていたことがわかる。このように、矢内原によると、キリスト教の神の働きが天照御大神という「態様」で日本に顕現したというのである。ただし、これは日本にのみ、その働きが現れたという日本の優越を唱えるものではない。これはつまり、「太陽の如く私心のない、おほらかな温かい心を以て歴史を経綸してゆくべしとの命令」である「天孫降臨の神勅」を与えたのは、キリスト教の神であったということになる。(中略)矢内原が、天皇とは制度ではなく、日本国民の精神的な中心点であり、天皇を中心とした共同体として日本は復興するべきだという考えを持っていたことを明らかにした。しかし、このような考えは矢内原独自のものではなく、当時としては一般的な考えであった。キリスト者においても、矢内原を含め、南原繁や高木八尺など、内村鑑三の薫陶を受けた人々は、敗戦直後、いずれも天皇を精神的中核に据えた共同体としての国家を復興させるべきであるという構想を持っていたのである。矢内原の考えにおいて重要であるのは、そのような共同体という構想の背後に神を見ていることであり、また、その根拠が彼の「天孫降臨の神勅」の解釈にあるということである。(中略)矢内原は、「二代目」のなかでも、天皇に強い傾倒を示した年長世代に属していた。同じく年長世代に属していた塚本虎二、黒崎幸吉、金澤常雄は、天皇を現人神であると明言こそしなかったものの、実際には天皇に神性を付与し、天皇を熱烈に支持し、太平洋戦争開戦を機に戦争批判から脱落して戦争肯定の立場に転向した。彼らと同じ年長世代に属していた矢内原が戦争批判を貫けたのは、他の年長世代と異なり、天皇を人間として支持していたため、そして、信仰と社会科学の両者が補完しあったためであった。>(~菊川美代子女史の論文「天皇観と戦争批判の相関関係――矢内原忠雄を中心にして――」)

 

「又現神(=現人神)の問題であるが、本庄だったか、宇佐美(興屋)だったか、私を神だと云ふから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういふ事を云はれては迷惑だと云った事がある。」(~松本健一著『三島由紀夫の二・二六事件』〔文春新書〕p162

 

<明治初期の神社界は、天之御中主神を筆頭に造化三神を中心とした教義体制のもとで、大教宣布運動を展開した。なぜその中心が天照大御神ではなく、「耶蘇教の造物主の如き宗旨上の本尊」と揶揄された天之御中主神を中心にしなければならなかったのだろうか。(中略)この造化三神と天照大御神を中心とする神観こそ、江戸国学思想の到達点でもあり、明治神道界の新たなる出発点でもあった。しかし、天之御中主神を中心とした神道は、わずか十年ほどで幕を閉じることになる。(中略)国学者が洋学を受容し始めることにより、日本のみの神ではなく、世界をも包み込む神の観念を発達させることになった。太陽を天照大御神の姿として拝する信仰は、古代からあった。(中略)宣長が従来の神話解釈に含まれている非日本的な内容や思考法を「漢心」となづけて排除し、神話の本質のみを純化したのに対して、平田篤胤や平田派の大国隆正などは、むしろ逆に日本神話の正しさを立証するために、支那・印度・蘭学・キリスト教にその論拠を求める方向に反転してしまった。それは、この普遍と特殊の両面を矛盾なく解決する理論を求めたことに起因している。(中略)明治になって、それまで一部の国学者の研究対象であった天之御中主神が、神道界で注目されるようになった。それにはいくつかの理由が考えられる。(中略)第三の理由は、鎖国から開国に転換した日本が、西洋の列強の前では東洋の一小国であるとの現実を自覚したとき、「万国」の観念を受容しなければならず、日本の皇祖・天照大御神だけではなく、より普遍的な、始原的な神の存在が求められたためである。その普遍的存在者の下において、日本と西洋を位置づけることが求められた。確かに、万国を照らす太陽神として天照大御神は位置づけられていたが、それ以上の宇宙的全体の中心、あるいは宇宙の創造神が求められることになった。(中略)天之御中主神が注目されるようになった第六の理由として、キリスト教の影響がある。国学者達は、十九世紀に入ると西洋の天文学のみならず、キリスト教も新知識として習得し始めた。洋学は、儒教や仏教の空理空論を排撃する知識として利用され、キリスト教の創造神話は『古事記』を傍証するための証拠の一つでもあった。大国隆正や伊能顚則・葵川信近・渡辺重石丸をはじめ平田系の国学者は、安易に天之御中主神とゴッドが同体異名であると主張している。まだ神道界全体のなかで天之御中主神の解釈が、確立していなかったことにも起因しているが、国学者の中にはキリスト教の影響を受けた者もいた。(中略)渡辺重石丸は、天之御中主神の神名を書名に付けて刊行した最初の人物である。(中略)この著述で、キリスト教の創造主宰神に冠されているような表現を天之御中主神に用いたことによって、彼の神道が神蕃習合神道とか、神基習合神道とか呼ばれ、あたかもキリスト教と習合しているかのように誤解されることになった。その誤解がいまもって解消されているとは言い難い。海老沢有道氏は国学が天主教の教理を摂取したことを前提にしたうえで、その摂取の仕方が「甚だしい非科学的独断附会」であると断じ、その学的迷妄、牽強付会の例として、重石丸の『真理説源』や『天御中主神考』をあげている。しかし、国学者の天之御中主神観や来世観に含まれている独自性が非キリスト教的要素を含むからといって、「学的迷妄、牽強付会」であるとするのでは、国学の思想的意味を見失うことになってしまうだろう。国学者の神観には、創造主宰神などのキリスト教的用語の借用や類似もあるが、異質な点がはるかに多いしその方が彼ら国学者にとって重要である。(中略)重石丸の天之御中主神論は、それまでの国学者の中では、きわめて一神教的であると言うことができるが、その神観のほとんどは、平田国学と朱子学の影響下にあると言えるだろう。明治初年の国学者にとって、キリスト教の思想は、是非とも自分の思想の中に組み込まなければならないほどの魅力はなかった。それよりも、近代自然科学や天文学が教える知識の方が、よほど理にかない、記紀神話と親和力があった。重石丸にしても、邪宗門やキリスト教を取り入れて自己の説を補強したり、箔を付ける必要などなかった。むしろ、キリスト教と「習合」するのではなく、「突合」わせをしているに過ぎないと言えよう。(中略)

天之御中主神 ――皇孫命 ――万民

ゴッド ――イエス ――万民

の関係の対比や、六月十二月の大祓とキリストの贖罪との突き合わせが読み取れる。このように彼の天之御中主神論は、キリスト教との類似があるとはいえ、その発想は朱子学の「天」の観念を基盤にしていることがわかる。(中略)天之御中主神論を唱えたのは、国学者・神道家達ばかりではなかった。儒学者も仏教者も大教宣布運動に参加することで、必然的に天之御中主神を説かざるを得なかった。ここでは長谷川昭道(中略)彼の説は、正統派の国学者からするならば、あまりに奇抜な神観を持っていた。(中略)昭道は天之御中主神に「天皇」の称号を付けて呼ぶ。(中略)天之御中主神は、一天の主君だから「スメラミコト」と称すべきで、それは天照大御神と同体であるとしている。(中略)昭道の天之御中主神論は、天照大御神一神論に収斂していくことを確認しておく必要がある。(中略)天照大御神は天之御中主神と同体であるばかりでなく、造物主・天帝などとも同一視され、創造主・主宰者を包合した唯一神に転化している。もはや天照大御神一神教である。(中略)結局のところ、彼の天照大御神一神論は、儒学の理一元論に国学や天文学・キリスト教などを加えてアレンジしたに過ぎない。キリスト教の造物主の観念にしても、(中略)造物主を認めつつも、理・気を置き換えて理解しているに過ぎないことがわかる。たとえこのような偏見に充ちた論であろうとも注目したいのは、その神観が天照大御神に収斂して一神教になっている点である。平田篤胤がキリスト教書を参看して以来、国学者の天之御中主神論は、キリスト教と習合しているかのように言われ続けてきた。(中略)人格神的イメージが定着している天照大御神が絶対神化されると、キリスト教の神にきわめて類似してしまうことになる。言うまでもなく、天照大御神は日本人が古代から崇拝してきた神で、皇室とも縁が深く、江戸時代にお蔭参りが熱狂的なブームを巻き起こすと、伊勢信仰が庶民の中に普及して極めて親しみやすい神となった。それに比べて、一般庶民が天之御中主神の神名を知るのは、たぶん大教宣布運動の最中であろう。天照大御神を国家祭祀の中心にして神社制度を作り上げようとしたのが、福羽美静等のグループであった。(中略)総ての神社に天照大御神を勧請し、官幣社・府県社へ皇太神宮を勧請し、さらに神宮大麻を(中略)各家庭で奉斎する政策を推進していた。このような政策と揆を一にするかのように、国民の中に天照大御神のみを崇拝する一神教的傾向が生まれてきていることに注意を向ける必要がある。(中略)絶対唯一神化された天照大御神を本尊として説教をしなければならないとする意見が、茨城県の川崎巌によって建白(明治五年十月)され、(中略)キリスト教と同様に、我が国においても「国初大主宰ノ天神」のみを信仰する一神教にしなければならないとするような建白書も提出されている。天照大御神が絶対神化された時、その国民への影響力は天之御中主神論の比ではない。このような天照大御神論にはキリスト教に対抗していこうとする排耶論の意図が含まれているが、キリスト教的一神教に触発されていることは明らかである。(中略)祭神論争後、天之御中主神が宮中神殿に遷座し、皇祖たる天照大御神――天皇が神社信仰の中心になった。道徳的存在としての天皇と国民との関係がより強まるのは、時間の問題である。(中略)

天之御中主神論が急速に衰退した原因は、第一に祭神論争が宮中三殿の遥拝で決着したこと、第二は神官と教導職が分離させられたことの二点に尽きる。その後、天之御中主神の崇拝が続けられていくのは、神社神道ではなく教派神道の中であった。教派神道で造化三神が奉祀され続けたのは、近代的信仰の確立をめざしていた教派神道にとって、宇宙の創造神・絶対神的観念が、彼等の教義には求められていたからでもあろう。(中略)とかく天之御中主神論はキリスト教との類似のみが喧伝されやすいが、そのほとんどが言葉の借用か突き合わせ以上のものではない。(中略)国学者や神道家たちが天之御中主神を論じることによって、唯一神論的発想を受容しやすくする素地を、作り上げたのではないのだろうか。彼らの天之御中主神論が、一般民衆の間にまで広まることで、キリスト教とは截然と区別できない唯一絶対神論が出てくるようになった。たとえキリスト教と表面的類似でしかないとしても、彼らの一神論は過激である。直截的である。その単純明快さのみが、天之御中主神論の終った後に残されたのである。天之御中主神の信仰は、祭神論争を契機として神社神道界から姿を消していくことになった。しかし、天之御中主神論が抱えていた一神教的問題は、それで終わったわけではない。教育勅語とキリスト教の衝突を通して、新たな局面を迎えることになる。明治二十年代以降の国民思想の潮流が、一神教=キリスト教的発想を受容して近代日本文化を形成していくこととの関連でも、天之御中主神論は考えられなければならないのである。>(~佐々木聖使氏の論文「明治初期における天之御中主神論」※今泉定助の「今泉教学」では天之御中主神が究極的存在であり、天之御中主神→天照大御神→天皇→国民 となるという。)

 

関連して関根文之助氏の以下の指摘を引用する。<平田篤胤は本居宣長の「没後の門人」であり、(中略)当時、漢文の中に混じってきたキリスト教の書物を読んで、彼の神学を立てた。平田神道、あるいは平田篤胤の哲学というものは独自なものであって、実はこれが、日本の神道の学問的な柱になっている。/おそらく神国であると持ちだしたのは、先程申しました平田神道ですね。平田神道を継ぐのは大国隆生、それを継ぐのは大川周明です。そういう流れがいわゆる一神教、「天のみなかみしの神」を天地創造の神と置き換えて説明をして、そして日本は神国であるという、そういう思想が当時の軍国的な考え方と、それをバックアップする思想とが一緒になって、だんだんいわれるようになったのではないかと思います。ですから学問的に言えば、やはり平田神道で「天のみなかみしの神」が創造神のように書いてありますね。それが大国隆正になるとさらに強くなるし、大川周明に至るとさらに強くなる。>(国際クリスチャン教授協会編『新しい神観の探究』〔星雲社〕p165/p182 ※「みなかみし」は「みなかぬし」の誤記だろう。また、前の大国隆生の「生」は後の方が「正」となっているようにこちらが正解らしい)。

 

次は海老名弾正の「日本的キリスト教」について(~關岡一成氏の論文「海老名弾正における世界主義と日本主義」)http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=BD00009346&elmid=Body&lfname=002000440002.pdf#search=

<この日本文化や伝統思想を内包する「日本的キリスト教」が具体的にどのようなものであるかの一例として、海老名がエホバと天御中主神を論じているところを紹介したい。これは彼がキリスト教と神道とを習合・折衷させている証拠として指摘される所でもある。

 

日本の古伝によれば八百万神の中に唯一の根本神がある、天之御中主は即ち此統治者である。古伝によると唯一の統治者が明確ならざるが如き観もあるが真淵本居以後の国学者は此の天之御中主を以て宇宙及万神の根本と認めて居る。基督教の唯一神教も猶太教より発したのである。ユダヤ教は唯一神教の揺藍ではあるが、乍併その遠い昔は多神の存在を認めて居った。又基督の時代とても種々の天使とその様々の階級を認めて居った。要するに八百万神の上に厳然として天之御中主のあるが如く、八百万の天神の上に唯一のエホバを認めて居った。故に此御中主の尊厳を認め、森羅万象を統治する唯一の神と崇むるやうになれば、基督教の神観と大同小異の点にまで、その思想を開展することは決して不自然ではない。故に日本の多神教に一大改革を加へ、所謂宗教界に於ける一大王政維新を断行すれば基督教と古神道とは神観に於て同一の宗教となることが出来やうと思ふ。

 

この文章の中から言葉を拾いあげて、彼がエホバと天御中主神を同一視しているとすることができるかもしれないが、少し厳密にこの文章を見ればそのように断定することはできないことに気がつく。即ち、この言葉はエホバを日本の民族神化して天御中主神の中に習合させるものととられているが、そうではなく全く逆に天御中主神をエホバ化する言葉ととるべきである。というのはこの言葉の中心は、天御中主神を森羅万象を統治する唯一神として崇拝するようになれば、という所にあるからである。神道史をひもとけば明らかなように、神道は過去においても今日も多神ということを本質としており、決して唯一神を立てていないからである。天皇とゆかりのある天照大神を強調する場合も他の神々を排除して、唯一の神とはしなかったのである。海老名が、天御中主神を取り上げたのは、日本の伝統思想の中でこの天御中主神こそ、唯一神への可能性を持つものと捉えたからである。そしてこれは、彼の独創とか独断によるものでなく、彼が好んで読んだ平田篤胤によるものであった。篤胤がキリスト教書を漢訳で読んでキリスト教の唯一人格神に近い形で、天御中主神を説いていることを踏まえたものである。しかも、篤胤には限界があったことも明確に述べられている。

 

篤胤は敬神の道を説き進めて天之御中主神の崇敬にまで復帰せしめたのであります。若し政治が神武天皇まで復帰すべきものならば、敬神の道は天之御中主神まで復帰するは当然の事でありませう。然れども之は容易いことではない、日本書紀によれば、原始の神は国常立尊とあります。然るを天之御中主神としたるは古事記に由るのであります。(略)然るに篤胤等古神道の徒輩は、天之御中主神まで復帰することは復帰したが、独一の天之御中主神を遵奉して、徹底的に八百万神を片付け得なかつた。何となれば天之御中主神は極めて抽象的であつて、日本国民の生きた宗教的対象でなかつた。故に篤胤は復帰するや否や、忽ち行き詰つたのであるが、彼はこの天之御中主神の性格を明かにし、その神性を顕さんと欲して、私かに耶蘇教を研究して居ります。之は彼に取つては卓見であり、又勇敢であります。(略)彼は耶蘇教を排斥せんが為めに、之を学びたるものとは思はれない。却つて之を取り入れ、之を以てその古神道を基礎づけ、又之を説き広めんが為めに学んだものと言はねばなりますまい。彼は国学者であり、又神道家である。しかも彼は割合に能く耶蘇教を了解して居るやうに思はれます。彼は耶蘇教の論鋒を利用して、儒仏を排斥して居る。然れども彼は賀茂本居に劣らない日本中華主義者であるから、排外論者たるを免れ得なかつた。(略)彼は神道に大鉈を加へて八百万神を片付け、神道をして純然たる唯一神教たらしむることは出来なかつた。之を彼に望むことは望むべからざることを望むのであります。

 

先の文章とこの文章とを合わせて読めば、海老名が天御中主神とエホバを同一視していないことは、一目瞭然であろう。(中略)

海老名の説く「日本的キリスト教」は、愛国、日本の伝統思想や文化を内包するものであったが、それはあくまでキリスト教の本質を歪めないという形のものであった。「日本的キリスト教」というと、仏教や儒教のような外来のものが日本化したような形でキリスト教の日本化が考えられがちであるが、海老名はそのような形の日本化はキリスト教の本質を曲げかねないとして反対している。(略)

 

儒教が日本化したるが如く、又仏教が日本化したるが如く、若し基督教が日本化するならば、その時こそは基督教の破滅である。

 

海老名は、この日本化してはならないキリスト教の本質唯一人格神と世界主義に見ている。それゆえ、キリスト教と同様に本来世界宗教である仏教が日本化していることも批判する。(中略)

以上、論じて来たことからも理解できるように、海老名を天皇を絶対視するような国粋主義者・日本主義者と同列においたり、キリスト教と神道を習合・折衷させる者とするのは誤りである。海老名がいかに日本主義を超越していたかは、彼の「超国家の権力」と題する説教が国粋主義者に問題とされ、「そのために刺客に見舞われたが、よい工合に一信徒が同座していたので、難を遁れた、しかしその妥協条件として、公開討論会が、追分町の帝大青年会の講堂で開かれた」事件があったことからもよく理解できる。天皇を絶対・最高の権力とする日本主義者には、海老名の説く超国家の権力としての唯一人格神はどうしても理解できないものであった。(略)

海老名の「日本のキリスト教化」と「キリスト教の日本化」を内包する「日本的キリスト教」を考察するにあたって注目すべきものが「日本化は基督化か」と題した『新人』の社説である。彼はこの社説で「キリスト教の日本化」ということは「国家の大祭日に国旗を建るとか、陛下の御真影を拝するとか、墓参をするとか、焼香をするとか」といった外観の問題でなくもっと根本的なものである。即ち、ユダヤやギリシャの歴史に神の摂理を見ていると同様に日本の歴史にも神の摂理が働いているとの視点で日本を把握することであるとする。また、「日本のキリスト教化」ということは、キリスト教の「天父は一人又は一国民の父母ではない、実に世界人類共通の公父である」から、この神を信じることは「狭隘なる民族主義を脱却して人類主義を旨とするに至らしむる」ことであるとされる。そして「日本化と基督化とはその根底に於て一なるが如く、その発展に於ても亦一である。即ち世界人類の幸福を増進するに外ならない」と結論づける。>

 

 土肥昭夫氏は、『日本プロテスタント・キリスト教史』の「矢内原忠雄の思想と行動」で、矢内原氏の考えを、矢内原氏の立場からわかりやすく言い換えて、次のように述べています。
「天皇の神性について二つの事が考えられねばならぬ。一つはその神性が妥当する範囲は国家であって、宇宙、人生ではない。もう一つは天皇は国家的位体において現人神であっても、現実の天皇の生活や人格においては人間である。日本国民は国家を重んじる点で道徳性を持ち、天皇を尊敬する点でその神性を尊崇する宗教性を持つ。この二つの性格を再認識し、これを宇宙的道義の認識、神の権威への服従に拡大することが、国民精神作興の道である、というのである。この論文をみるかぎり、矢内原は日本精神とキリスト教を矛盾、対立するものとして排除する立場をとらなかった。まず日本精神を分析し、その領域を限定することによってキリスト教にその活動の余地を提供した。さらに日本精神の中より価値あるものを探り出し、これをキリスト教に結びつけ、キリスト教はそれを完成、成就するものと確信した。これは内村がキリスト教とナショナリズムを考えたとき、たえず唱えた方法である。それにしても、日本精神を限定することによってキリスト教の窮極的価値をとなえたり、天皇の神性と人性をそのカテゴリーによって使いわけたりすることは現実的に不可能なことであった。特に皇道精神によって一元化政策をすすめようとした国家権力はこのような主張をみとめなかった。彼はファシズム体制よりやがて排除されることになるのである。」(p394文中の「この論文」とは発禁処分にされたといわれる前掲の「日本精神の懐古的と前進的」(『理想』一九三三・一掲載)

と述べ、終わりのところ(全集一八、七〇一頁)を引いて、「彼にとって日本は一君万民の天皇を上に仰ぐ国体でなければならなかった。彼はこの天皇制国体において神の正義と公道は貫徹し得ると確信していた。この見解は戦後もかわらなかった(中略)彼は大正デモクラシーの時期に天皇制国家によって最高水準の教育をうけるという恩恵にあずかり、キリスト者であり、東京帝大教授であるというエリート意識をもって、わが道を生きつづけることができた人であった。そういう彼が一君万民の天皇制イデオロギーから解放されることは困難であったのである。」と結んでいます。
また、菊川美代子さんの論文「天皇観と戦争批判の相関関係―矢内原忠雄を中心にして―」では、<上掲の「天皇は現人神なりと為す信念には二つの考慮が加へられねばならない」云々について、「このように矢内原は、国家において天皇は尊重されねばならないが、天皇は他の人間と同様に人間であるとして、天皇の神性をはっきり否定しているのである」と述べておられます。しかし「天皇神性の基礎は人格よりも位体に於て存し」という文言をみれば、「はっきり否定している」とは言えないのではないかと思われます。菊川さんとしては、その「神性」はあくまでも「人格」についてではなく「位体」について言われているにすぎず、それは「被造物」であることと矛盾しない範囲のことであって、「造物主」の前では相対化されるものだということでしょう。その点は立花隆氏も、「キリスト教信者である矢内原にとって、天皇の神性をキリスト教の神の神性と同列に置くことだけはどうしてもできなかった。天皇に神性ありとしても、それはキリスト教の神の全智全能でかつ宇宙のすべてを造った造物主であるという意味での神性とは別の神性であるということを矢内原は論証しようとした。」と述べているとおりです(『天皇と東大 』〔文春文庫〕四九七頁)。しかし聖書的には、創造主なる「神」のみが神性を有するわけではなく、一個のユダヤ人イエスにも「神性」が認められています。それを修辞的意味で解するか、そのまま実体的意味で解するかは解釈の問題ですが、新約聖書にイエスを神性者とみなす面があることは否定できません。そして矢内原氏が言う「位格」は、イエスを神格化した「三位一体論」に於いて「位格=人格」と解される「ペルソナ」であることを思えば、矢内原氏が天皇(の位体)について述べた「神性」が、彼の中で聖書乃至はキリスト教と全く「別の神性」であるとは言えません。そして矢内原氏にとって「天皇神性の研究」は「国家至上価値」と共に「国体研究の中心」として位置付けるほど重大な意味を持っていたのです。
矢内原氏も一方では天皇を「神」とすることについては否定的発言をしながら、天皇の「神性」については、適用範囲と意味の区別を設けてのことではありますが肯定的発言をしているのです。「人性=人格」と「神性=位体」という区別をどう見るかという問題です。これは、いかにキリスト者とは言え当時の日本国のエリートであった矢内原氏としては、国家神道の全面的否定ということは現実にはあり得なかったということでしょう。そこに内村鑑三氏以来の「二つのJ」のジレンマがあります。その一方の「J」すなわちイエス・キリストが「ただの人」であればまた別の話ですが、そのイエス自身が「神性」を帯びた存在であり、さらには「神」と同一の本質・実体とみなされたことが、その相似的存在の許容につながっていると思われます。その詭弁の根拠とされるのが後述の「経綸」の論理です。これは歴史的現象を救済史という歴史観で都合よく包括するものです。言わば皇国史観を救済史観で包むのです。その媒体が「神話」です。

菊川さんは、<矢内原は、天皇を人間と言いながらも、神の経綸の中に天皇を位置づけていた。この点については色々と議論のあるところだが、私には、矢内原は、天皇をキリスト教の神の経綸の中に位置付けられた「特別な人間」として見ていたとするのが適切であるように思われる>と指摘しています。このお二人の指摘がまさに矢内原氏の限界を表していると思います。その限界は当時の時代状況を勘案すれば限界とは言えないのかも知れません。国家から給料を得て国家のために貢献すべき帝大教授のキリスト者としては、「二つのJ」のジレンマを乗り越えるためのレトリックとも言えるでしょう。そういうのは他の知識人キリスト者にもみられることで現代の民主主義社会の考えで批判することには無理があります。矢内原は、「戦争中日本的基督教などといふことが言はれまして、エホバ神がイークオル天御中主神であるなどと言つた人もありますけれども、私はさうは思はないのであります。」(「全集」一九所収「国家興亡の岐路」~「日本の傷を医す者」一七二頁)と述べていますが、ここで矢内原氏が指摘している「日本的基督教」、そして「エホバ神=天御中主神」を言った人というのは、おそらく海老名弾正の弟子の渡瀬常吉ではないかと思われます(笠原芳光氏の論文<「日本的キリスト教」批判>参照)。
前述の「経綸」の論理が表されている箇所を引用します。
「天照大御神は天照大御神であつてエホバの神ではないが、併し天照大御神を意味あらしめるものは唯一つの絶対的な宇宙神である。即ち聖書に啓示せられて居るエホバ神である。エホバ神なくしては天照大御神もなく、日本民族もなく、天孫降臨の神勅もなかつたのである。この意味に於て
天孫降臨の神勅の中にエホバの経綸が顕れて居ると私は信ずるのである。之は唯一つの絶対的な真理の神が全世界、全宇宙を経綸し給ふといふ信仰と、その神が己れを顕現し給ふ態様は各民族により時代によつて特殊であるといふ解釈と、二つの原則から出てくることであるのです。イスラエルは神の選民であるといふと同じ意味に於て、日本民族も神の選民である。日本は宇宙の本つ国であつて他の国は日本に附属してをると本居宣長などが言ひましたが、他の国が日本に附属してをるといふことは誤りであります。併し日本は本つ国であるといふのは正しい信仰である。日本も本つ国だ支那も本つ国だし、凡て理想をもつて其の歴史を営んでをる民族は本つ民族であり、其の国は凡て本つ国である。凡て理想に生きる民族はその限りに於て宇宙の絶対的原理を表現してをると言へる。選民といふ思想を其の如く拡張して解釈すべきだと思ふのです。」(「全集」一九所収「国家興亡の岐路」~「日本の傷を医す者」一七二-一七三頁)
この「拡張解釈」は矢内原氏が「日本国」を聖書的,キリスト教的世界観と関連付け、その中に位置付ける必要によるものだと思います。矢内原氏のアイデンティティーはキリスト教信仰を抜きにしてはあり得ないと同時に、日本国を抜きにしては成り立ち得なかったのです。矢内原氏に於けるこの二つの要素、キリスト者たることと日本国の指導者的立場にあることとをどう結び付けるかとなれば、考え方として「神の経綸」という枠を設定することは当然だと言えます。

 

「永遠の命、それは唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになることです。」(ヨハネによる福音書 小林稔訳)

 

「それゆえに、あなたがたは互いを受け容れなさい。ちょうどキリストもまた、神の栄光のために、あなたがたを受け容れて下さったように。」(ローマ人への手紙15:7青野太潮訳)

 

「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものなのである。」(コリント人への第一の手紙3:23 青野太潮訳)

 

キリストの頭は神であるということを、あなたがたに知っていてほしい。」(同上 11:3 同訳)

 

「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(同上、15:28 同訳)

 

<パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている>(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』p5)

 

「一コリント一五章においては、キリストの支配がはっきりと神の主権の前で限定されたものとなっている。」(同上書 第一部 5章)

 

「事実、神は唯一人(ただひとり)、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(テモテへの第一の手紙2:5 保坂高殿訳)

 

 イエス・キリストの人格についての問に対する答は「神」とか「人」とかと答うべきではなく、ただ「神の子」と答うるのが聖書に基づく答であります。「神の子」は先在においても、受肉しても、死して甦って昇天しても、常に「神の子」と呼ばれて充分でありまして、それが聖書の語るイエス・キリストなのであります。>(小田切信男著『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト)- 北森嘉蔵教授との討議を兼ねて- 』〔待晨堂書店〕p15)

 

<キリスト・イエスはいかなる意味においても自らを「神」として物語り且つ示しはしなかったのであります。たとえ神にひとしいとまで語られても、神への従属的地位を外す事がなかったのであります。>(小田切信男著『福音論争とキリスト論』p145)

 

「万物がキリストに帰一して、然る後に神に帰一することが、救済の完成でありますから、キリストの業の終る所がある訳であります。そこにキリストの仲保者性の限界があると言えるでありましょう。」

(同上、p215)

 

<神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は「イエス・キリストのみが――全知なる神である」となって「父なる神」を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。>(同上、p263)

 

神はやはり唯一の神――父なる神――であっても子なる神とも、また純粋の霊だけの神とも語られません。要するに三位一体論そのものが、神を客観的にあげつらう論理として既に思い上った論理であります。そしてこれは、イエスも使徒も語らなかった神観であり、明らかに異教化したものと言えましょう。キリスト教界はこの三一神観という信条・教理についても福音の光で検討を加え、多神化しようとするキリスト教の異教化を徹底的に排除すべきではありますまいか。>(同上、p366)