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「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(Ⅰコリ15:28 青野太潮訳)

 

この箇所は、主語の「神」のあとに「の御心」という言葉を補って読むとわかりやすくなると思います。「神が・・・なる」と言っても下記の注解のとおり神の「御心」がなる(実現する)という意味だからです。文字通り取ると、創造主なる唯一の神(=御父)が被造物に成るかのように思われますがそういう意味ではありません。だから出エジプト記3:14に出てくる「エフイェ」(わたしはある〔or いる〕、わたしはなる)にこじつけて解釈するのは論外です。

「神がすべてのものにおいてすべてとなる」とは、逆に、すべての被造物の本源は創造主なる唯一の神(=御父)であり、最終的にはこの唯一の神のもとに帰るという意味です。それは正教における「神化」とは全く意味が異なり関係ないことです。


「『御心が天に行われるように、地にも行われるように』との主の祈りが実現する、即ち神の国が実現することを意味したものである。こういう表現にはヘレニズムの神秘主義の影響があると言われている。ただパウロにおいては汎神論的な意味ではなく、支配の完全性の表現として用いられている。」(~『岩隈直聖書講解双書』4 コリント人への第一の手紙)
  

人間にとって何が最も大切なことか、何が究極の真実か?という問いに対して、一般的には「生命」「愛」「人権」「平和」「正義」あるいは「家族」だの「仕事」だの「財産」や「名誉」だのといったことが並びますが、いかなる価値も万物の創造主との関係に基づかなければ、コヘレトが言うようにすべて空しいです。特に人間、限界状況ではこの「神」との関係に「立ち帰る」(シューブ)ことが救いとなります(イザヤ30:15他参照)。しかしそのことを知る者は、この世のエリート的な意味とは逆の意味において選び召された者のみです。


このサイトは、正統自称のキリスト教会の教義(特に「(同等の)三位一体」)の相対性を究明する目的のもとに作成されています。教会の聖書解釈である信条・教義の絶対化は偶像崇拝に等しく断じて許されません。「主イエス」の「主」は同じ訳語であっても、旧約の「主=YHWH」を意味しません。聖書的神信仰はイエス・キリストのところで止まってはなりません(キリストは「道」であって「目的地」に非ず)。

「事実、神はただひとり、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエスただひとり。」(テモテへの第一の手紙2:5)

 

Ⅰコリ15:28に示されているとおり、歴史の終末には御子自身も創造主なる唯一の神である御父に服従するのです。

 

神がすべてにおいてすべてとなる(エー ホ テオス パンタ エン パーシン)」

 


 

 

「永遠の命、それは唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになることです。」(ヨハネによる福音書 小林稔訳)

 

「それゆえに、あなたがたは互いを受け容れなさい。ちょうどキリストもまた、神の栄光のために、あなたがたを受け容れて下さったように。」(ローマ人への手紙15:7青野太潮訳)

 

「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものなのである。」(コリント人への第一の手紙3:23 青野太潮訳)

 

キリストの頭は神であるということを、あなたがたに知っていてほしい。」(同上 11:3 同訳)

 

「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(同上、15:28 同訳)

 

<パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている>(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』p5)

 

「一コリント一五章においては、キリストの支配がはっきりと神の主権の前で限定されたものとなっている。」(同上書 第一部 5章)

 

「事実、神は唯一人(ただひとり)、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(テモテへの第一の手紙2:5 保坂高殿訳)

 

 イエス・キリストの人格についての問に対する答は「神」とか「人」とかと答うべきではなく、ただ「神の子」と答うるのが聖書に基づく答であります。「神の子」は先在においても、受肉しても、死して甦って昇天しても、常に「神の子」と呼ばれて充分でありまして、それが聖書の語るイエス・キリストなのであります。>(小田切信男著『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト)- 北森嘉蔵教授との討議を兼ねて- 』〔待晨堂書店〕p15)

 

<キリスト・イエスはいかなる意味においても自らを「神」として物語り且つ示しはしなかったのであります。たとえ神にひとしいとまで語られても、神への従属的地位を外す事がなかったのであります。>(小田切信男著『福音論争とキリスト論』p145)

 

「万物がキリストに帰一して、然る後に神に帰一することが、救済の完成でありますから、キリストの業の終る所がある訳であります。そこにキリストの仲保者性の限界があると言えるでありましょう。」

(同上、p215)

 

<神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は「イエス・キリストのみが――全知なる神である」となって「父なる神」を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。>(同上、p263)

 

神はやはり唯一の神――父なる神――であっても子なる神とも、また純粋の霊だけの神とも語られません。要するに三位一体論そのものが、神を客観的にあげつらう論理として既に思い上った論理であります。そしてこれは、イエスも使徒も語らなかった神観であり、明らかに異教化したものと言えましょう。キリスト教界はこの三一神観という信条・教理についても福音の光で検討を加え、多神化しようとするキリスト教の異教化を徹底的に排除すべきではありますまいか。>(同上、p366)