続々・コヘレトの知恵とイエスの神

 

1:8 いっさいの事柄は物憂く、

    誰も語り尽くせはしない。

    目は見て、飽きたりることなく、

    耳は聞いて、満たされることはない。

  9 かつて起こったことは、いずれまた起こり

    かつてなされたことは、いずれまたなされる。

    日の下に、新しいことは何一つ存在しない。

西村氏の注解では、8節が「すべての現象は解体的である。何人もこれを諺に表現することはできない。目は見ても満足せず、耳は聞いても満たされない。」、9節は「起こっていることは、また起こるであろう、なされていることは、またなされるであろう。日の下に何一つ新しいことない。」と訳されている(※「ことない」は「ことはない」だろう)。

月本訳の8節の注では、「事柄」と訳された「ダーバール」(発音記号〔ニクダ〕的には「ダバル」ではない)は「言葉」をも意味するという。また、谷川政美氏の文法書の語彙では「物事」も含まれている。この動詞形(パアル)が「ダーバル」で「話す、語る」である。9節の方は、注では同じ内容が3:15、6:10、7:24で繰り返されているというが、私見では少し、あるいはかなり意味が異なる。3:15が一番近いだろうが、「神は過ぎ去ったことをまた追い求める」が付いている。つまり時の流れを支配している主体として「神」に言及されている。70人訳では「神は失われた者を探し求める」とあるそうだ。過去の人生の中に失われている自分を神は探し出して現在の自分に活かして下さる・・・そうとでも解釈すればよい。人生の支配者は創造主なのだ。人生の過去のボロボロの自分にも今、何らかの意味が与えられて再生し得るのも神が過去を空しくされないからだ。失敗や挫折の過去も意味あらしめて下さる。人間は表面的にしか現象を見ないから、人生に空しさを感じることもあろう。しかし、日々の繰り返しのようなマンネリ化した流れの中で空しい気分を感じても、そして8節で言われているように物憂い気分に襲われても、常に創造主なる神の支配下に在って生かされていることも思えば、だいぶ気分も晴れてくるというものだ。その信仰が7:24で言われている深遠なる存在根拠たる神の実在感である。勝村氏は解説で次のように述べておられる。

「いかにもコーヘレトは、人間に何かを与える神についてしばしば語る。しかし人間には神の意思が結局は知りえないのだとすると、感謝のような仕方での神への応答は不可能である。神と人間との人格的な交わりはここには成立しない。だとすると伝統的な意味でコーヘレトが神を信じているとは言えまい。以上のような解釈が一応は成り立つ。しかしながら、コーヘレトが自己の省察から虚無主義的な結論を引き出した形跡は見当らない。彼があまりにも多くの世界の不条理を前にして、伝統的な意味での神による世界統治を信じいないとしても、世界が美しく造られてあることは認識されている(三11。ただし、人間はどこまでも時間性の中に生きているのですべてを見通すことが出来ない。世界が根本的には認識不可能であるとしても、コーヘレトが愚行を勧めているのではない。逆にどこまでも知恵の探究が勧められている。」 

 「伝統的な意味での神による世界統治」は相対化ないしは否定されても、「神による世界統治」それ自体が否定されていはいない、摂理信仰は確固として示されている。

9:1 実際、私はこのことすべてを心に留め、このことすべ   てを吟味した。すなわち、義人も賢者も、彼らの働きも〔いっさいは〕神の手の中にあるということを。愛であれ、憎しみであれ、人間には彼ら自身の前にあることすべてを知ることができない。

西村氏の注解では、「私はこれらすべてのことを心に留めて、これらすべてのことを調べた。義人も知者も彼らの働きも神の手の中にある。愛も憎しみも人間は知らない。(だが、)すべては(両方とも)彼らの前にある。」

1:15 曲げられたものはまっすぐにはできない。

     なくなったものは数えられない。

 

7:13 神の業を見きわめよ。

     彼が曲げたものを、誰がまっすぐにできようか。

西村氏の注解では、1:15が「曲がったものは、まっすぐではありえない、欠けたものは、数えることができない。」、7:13が「神の業を見よ、神が曲げたものを誰が真直ぐにすることができようか。」 

曲げる、曲げない云々は当時の格言かと注で言われ参照が指摘されているが、7:13で曲げる主語である「彼」は「神」であり、その「業」を人間の力では見究められないし変えたりすることも不可能だから、その人間の限界をわきまえ自覚することこそ「神」を畏れること(3:145:67:18他)であり、伝統的には、この「神=ヤハウェ」への畏れは「知識」(ダアット)のはじまり(箴言1:79:10)である。

「三位一体」と言うが、「神」についても客観的対象として「三」だの「一」だのと「数えられない」。「(唯)一」(エハード)の意味は数直線上の(相対的)「1」とは異なるという点で、「三一」の「一」とは区別される。

教理の話になると護教的神学者が詭弁を弄して信徒大衆を誤魔化してきた歴史がある。現場の信徒不在の「神学」は意味不明であり、そういうものに深入りすることは時間と労力の浪費になる。神観相対主義に立てば、人それぞれ自分がリアリティーを感じられる「神」との関係を自由に生きることができる。誰からも特定の「神(観)」を押しつけられることはない。それがコーヘレトの場合も、あえて固有名ではなく普通名で「神」を語った意味であろう。

神名としての「エロヒム」のみの使用は、コヘレトが人間の普遍的な状況について語ろうとする試みとして理解され得る。愚かさと虚栄に他ならぬ人間の多くの営みを対比的に語りつつ、『コヘレトの言葉』は、私たちの生の目的は神との関係のうちに生きることである、と示唆する。>(「IP-J-63」所収.ダグラス・K・フレッチャー/竹内裕訳「コヘレトの言葉五章一― 七節」p120

1:13 私は知恵をもって、日の下で行なわれるいっさいの

     ことを訊ね、調べようと、心を傾けた。それは、神

     が人の子らに与えて、苦労させる辛い営みであっ

     た。

  14 私は日の下で行なわれたすべての業を見たが、なん

     と、そのすべては空であり、風を養うことにほかな

     らなかった。

12節については1節のところを参照。西村氏の注解では、13節が 「私は、天の下で行われるすべてのことについて、知恵を用いて、尋ね、調べようと心をつくした。これは、神が人の子らに耐えさせるように与えた苦しい課題である。」、14節が「私は日の下で行われるすべてのわざを見た、見よ、一切は空であり、風を牧するに等しい。」と訳されている(2:17は新共同訳に合わせ「風を追うようなもの」)。月本訳(岩波版)の用語解説で「風を養う」とは<空しいことのために努力することの比喩的表現.「風を追う」とも訳される.>とある(1:14の注11参照)。上記のとおり「風を追うようなこと」は新共同訳で、新改訳は「こと」が「もの」になる。「風を追い求めること」(「ような」は付かず)が有賀訳。「風を捕えるよう」(「こと」は付かず)が口語訳で明治文語訳も「風を捕ふるがごとし」。この14節の「すべては空である、風を養うことにほかならなかった」(「ほかならない」と現在形もあり)というフレーズはこの後も繰り返されるが、実に詩的な表現で人生の「空しさ」が伝わってくる。労苦の神話的起源は創世記3:17~19に、「あなたはあなたの妻の声に聞き従い、食べるな、とわたしが命じた木から取って食べた。大地はあなたのゆえに呪われるものとなった。あなたは、生涯、労苦のなかで食物を得ることになろう。・・・あなたが大地に戻るまで、あなたは顔に汗して、食物を得ることになろう。あなたは大地から取られたのである。あなたは塵だから、塵に戻る」と記されている。呪われたのは大地であり人間ではない。コーヘレトにはこの創世記の言葉が念頭にあったかどうかはわからないが、ここであらためて、彼の語る「日の下」の意味についての有賀氏の解説を復習する。

「日の下に」(tahathhasshemeshという表現を著者は好んで用いているが、これは人間存在の限界を印象深く表現する。それは八・一四、一六及び一一・二に出る「地の上に」(al-haares)とほぼ同義ではあるが、それが太陽の光を示唆しているところに微差が認められなければならない。人間存在は、ともかくも輝く太陽の下に営まれる一生ではある。従って「日の下に」は必ずしも悲観的な表現とだけは見られない。だが右に引用した句においては確かに「限界づけられた地の上に」の意が勝っている。人間は地上に生まれ、働き、そして死んでゆく。そしてその生涯の決算において剰余となるものは何一つない。>

人間には被造物としての限界がある。言わば、歴史的社会的現実を超えることは出来ない。しかしこの限界というか限定があるから、被造物としての分を弁えて他力にすがり、創造主を信仰する心も生れる。この限定を自覚しなければ絶対他者としての「神」を要請することなく、人間が自らを絶対化して神となるべく禁断の木の実を食べ、バベルの塔を築く愚を犯すことになるだろう。

1:16 私はわが心に語って、言ったものだ、「どうだ私

     は、私以前にエルサレムに君臨した誰にもまさって

     偉大になり、知恵を増し加えた」と。そして、わが

     心は大いに知恵と知識を見きわめた。 

  17 また私は知恵を知り、暗愚と愚昧を知ろうと、心を

     傾けたが、これもまた風を養うことにほかならない

     のだ、と私は知った。

  18 知恵が多ければ、憂いが多く、知識を重ねては、悩

     みを重ねる。

 

西村氏の注解では、16節が<私は私の心に語って言った、「見よ、私は私よりも先にエルサレムにいたすべての者にまさって知恵を加えた。私の心は知恵と知識を十分に観察した」。>、17節が「(それゆえに)私は心をつくして、知恵を知り、狂気と愚痴を知ろうと努めた。これもまた風を追い求めることである、と知った。」、18節が「知恵が多ければ 悩みが多く、知識を加えれば 憂いを増す」と訳されている。この箇所も準拠する新共同訳とはかなり異なっている。

月本訳の注では「心」(レーブ)が「古代イスラエル人にとっては感情のみならず、認識の座でもあった」、そして著者(編者は複数)は、<一方で「知恵」(ホクマ)を讃え、他方でその無意味さを繰り返す>と記されている。この肯定的と否定的、積極的と消極的の両面を把握することが重要であり、木田献一氏の新共同訳略解記事、「一六-一七 その結果、彼は自分の心に向かって、過去のいかなる王にもまさって、知恵を深めたとつぶやいたが、結局知恵も知識も狂気であり、愚かにすぎないことを悟ったのである。一八 そして、思ったことは、《知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みを増す》ことでしかなかった」(p710)というのは、甚だ偏向していると言わざるを得ない。特に人生の「知恵」(ホクマ)を学ぶことが、私のコーヘレト書読みの目的であるから、他の箇所はいざ知らず、ここでの木田氏の否定的な面に偏る見解は受け入れられない。要は人間の知恵も知識も創造主の前では限界があり、その限界を弁えることこそ「神」への畏れであり、神関係の第一のこと、出発点として大切なことなのだ。解説で勝村氏は次のように述べている(5.18の引用の続き)。「世界が根本的には認識不可能であるとしても、コーヘレトが愚行を勧めているのではない。逆にどこまでも知恵の探究が勧められている。生きている限り、全力で行なえとさえ言われているのだ(九10、一一1以下)。(中略)あらゆる意味での世界の虚無性と人生の不条理に直面しながらもそれに屈することのなかったコーヘレトの知恵とは何であったのか。それはどこに根を張っているのか。これらは究明すべき課題である。」

すなわち悩みの多さに比例する知恵、憂いの深さに比例する知識とは要するに神関係・信仰には無用な「過ぎた」知欲であり、それは労働によって制限されなければならないということだ。労働を知欲抑制に使うこと自体、信仰の知恵なのである。

ATDでは次のように解説されている。

18 知恵は痴愚に対する優越性を深く確信しているのに、それを新たに深く傷つけることになるこの結論は、どこから出てくるのであろうか。「知恵が多ければ、不愉快も多い。知識を増せば、悲しみも増す」という格言もまた最初は学校の格言であって、賢者が啓蒙されていない人に、その格言によって知恵への道に向かって努力するよう気づかせるものであったと思われる。(中略)これに対してコーヘレトの言葉は、自信に満ちた優越的立場からの訓戒からはまったく越え出ており、教師と生徒の差異をすっかり無にしてしまう人生の深い苦悩を指し示す言葉となっている。13節は、問わねばならぬという神の定めた苦難について語っていた。18節は、知恵に深く入り込むことによって、この苦難は減少するどころか、増加するということをしっかり書き留めている。真の知者は自分の無知を知り、それゆえに問いの範囲に留どめられるというソクラテス的な知恵は、本節では次のような知恵の理解の範囲の中で語っている。知恵を理解することは、現実の人生から知識を知的でなく切り離してしまうことがあるのである。コーヘレトは単に思索上の困惑について語っているだけではなく、「探究し、探索する」知者の努力が至るところで人生を真につかむことの限界にぶつかるという人生の深い困惑について語っているのである。今や、同時代のことを考えることを試みてよいかもしれない。人間の知識と能力は、完成の域に近づくにつれてますます危険になり、「自然」を破壊するというようなことが考えられよう。では、知者たちによって十分な満足をもって称賛された愚かさに対する知恵の優越性はいったい何であろうか。知恵が人生に大きな約束をしてくれると考える人は、不満と悲しみを被る。人生を賢く形作り、操縦しうると人が考えているなら、その人はあらゆる物事の謎めいた定めに突き当たる。人がこの定めの秘密を理解しようとしても、これは理解されることを拒む。人がこの労苦から戻ろうと望んでも、彼はこの道もまた、後戻りのできないようにと「課せられた」道であるということを知るほかない。>(P312314

 

2:1 私は心の中で言った、

   「さあ、快楽をもってお前を試そう。

    幸福を見きわめてみよ」。

    果たして、これもまた空であった。

  2 笑いについて、私は思う、それは愚かなことだ、と。

    快楽については、一体それが何になろう、と。

西村氏の注解では、1節が<私は自分の心に言った、「さあ、快楽をもっておまえを試みよう。愉快に過ごすがよい」と。しかし見よ、これもまた空であった。>、2節は<笑いについて私は言った。「これは狂気である」と、また快楽について「これは何をするのか」と。>

注に、「幸福」の原語は「トーブ」で原意は「よいこと」とのこと。ここでコーヘレトは「快楽と愚行に身を任せてみた」のである(~新共同訳聖書略解の木田氏の記述)。私見では、このコーヘレトの「試し」は、大金がかかることだから贅沢なことだし、コーヘレトの社会的身分が上層であったことを示唆する。しかし同時に、これはコーヘレトの頭の中での話ではないかとも思った。事実であるとみるには、4節以下で言われていることが、あまりに豪勢だからだ。しかし10~11節では「労苦」(アーマル)という言葉がある。これは「補注 用語解説」では、<何かを得ようと力を尽くすこと(中略)コーヘレト書に19.その大半が人間の労苦の空しさを言うが、他方で、そのような労苦に幸せを見ることが神の贈り物だとも言う(3:13,5:17)>とある。つまり、「労苦」はコーヘレトに於いては両義的・両価値的(ambivalent)な観念なのだ。これは「空」と異なる点である。コーヘレトに於いて「空」(hebel)はあくまでも否定的・消極的意味である。そしてこの後、コーヘレトは、<大事業を興し、宮廷を建築し、庭園を整え、男女の奴隷を多く所有し、財産として家畜を多く飼育した。金銀をはじめ多くの宝物を集め、男女の歌い手と多くの側女をはべらせた。しかし、これらすべてのことを必ずしも楽しまなかったわけではないが、多大の力を尽くした事業も快楽も所詮は空であり、そこから得た分け前といえば、費した労苦のほかには何もなかったと言う。その結論は端的に、結びの一句に示されている。「見よ、すべては空であり/風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない」。>(同上、p710

この結びの一句での「空」は、前にも述べたように木田氏の言う仏教的・価値中立的観念などではなく、上記のとおり否定的意味での「空しいこと」であることは明らかだ。

自分が置かれている今の日本社会は、マスメディアで切り取られた幸せそうな場面が幻想をもたらし、コーヘレトが感じた「空」なる現実をある意味、隠してしまっている。しかし自分のような下層民は、そのメディアの切り取りによって、より一層の「空」に包まれるのだ。つまり劣等意識を増長されるということだ。自分を他人と比べて優劣を競う心のあり様こそが「空」を映して不幸感を生み出す作用因である。逆に中~高層民は、自他の優劣比較で優越感に浸ることが「空」を忘却するための有力な方法であろう。しかしコーヘレトは例外であった。彼は「空」を忘却して自分を誤魔化すのではなく、「空」の現実を直視し、自分を試して生きていた。それは彼は「神」との関係の中に生きるべく定められていたからであろう。「神」との関係の中に生きる定めの者は、「神」(との関係)以外に絶対なるものを見出そうとしてもコーヘレトのように「空」にぶち当たってしまうようになっているのだ。そのことをコーヘレトは試し、実験してみて、経験知として悟ったのである。

2:12 私はまた顧みて、知恵と暗愚と愚昧とを見きわめよ

     うとした。

     王の後を継ぐ者〔が行なうこと〕とは何か。

     彼はすでにあったことを行なうまでのこと。

  13 そして私は見きわめた、闇より光に益があるよう

     に、愚昧より知恵に益がある、と。

  14 賢者の目はその頭にあるが、

     愚者は暗闇の中を歩むのだ、と。

     だが、私は知った、

     そのどちらにも同じ運命が臨むことを。

  15 私は心の中で言った、

    「愚者の運命と同じことが私にも臨む。

     そのとき、私が並外れて賢いからといって、何にな

     ろう」。

     私は心に呟いたことだ、これもまた空である、と。

  16 たしかに、賢者も愚者と同じく、永遠に想起される

     ことはない。やがて来る日には、すべてが忘れ去ら

     れてしまう。そう、賢者も愚者と共に死ぬ。

  17 私は生を厭わしく思った。実際、日の下で行なわれ

     る業は私にとっておぞましい、すべては空であり、   

     風を養うことにほかならない。

西村氏の注解では、12節が「私はまた知恵と狂気と愚痴を見ようと顧みた。というのは、王の後に来る人は何であるか。彼がすでになしたことをするにすぎない。」、13節が「私はまた光が闇にまさるように、知恵が愚痴にまさることを見た。」、14節が<「知者の目はその頭にある、しかし愚者は暗闇を歩む」。しかし私は知っている、同一の出会い(運命)が彼らすべて(両方)に臨むことを。>、15節が<それで私は私の心に言った、「愚者と同じ運命が私にも臨むのだ、それではどうして私は賢いことがあろうか。これは利益だろうか」。また私は私の心に言った、「これもまた空である」と。>、16節が「というのは知者も愚者も共に永久に覚えられないからである。来るべき日にはすでに、すべては忘れられる。どうして知者も愚者も同様に死ぬのか。」(「来るべき日」とは「死の後に来る日々」と記されている。死後生〔Life After Death〕だ。)、17節が「私は生命をいとった、なぜなら、日の下でなされるわざは私には悪いからである。まことにすべては空しく、風を追うようなものである。」(「生命ではなく、生。」と記されている。だったら「私は生をいとった」と訳せばよさそうなもの。新共同訳では「わたしは生きることをいとう。」となっている。)

私の好きな五木寛之氏の『人間の覚悟』(新潮新書)からコーヘレトの信仰思想に通じるものがある。はじめの方だけ引用してみる。

<そろそろ覚悟をきめなければならない。最近、しきりにそんな切迫した思いがつよまってきた。以前から、私はずっとそんな感じを心の中に抱いて、日をすごしてきていた。しかし、このところ、もう躊躇している時間はない、という気がする。いよいよこの辺で覚悟するしかないな、と諦める覚悟がさだまってきたのである。「諦める」というのは、投げ出すことではないと私は考える。「諦める」は、「明らかに究める」ことだ。はっきりと現実を見すえる。期待感や不安などに目をくもらせることなく、事実を真正面から受けとめることである。では「諦める」ことで、いったい何が見えてくるのか。「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい」と、魯迅はいった。絶望も、希望も、ともに人間の期待感である。その二つから解き放たれた目だけが、「明らかに究める」力をもつのだ。しかし、私たち人間は、最後までそのどちらをも捨てきることはできない。はっきりいえば、「諦めきれぬと諦める」しかないのである。とはいうものの、ギリギリの点まで、「明らかに究める」努力を捨てたくはない。希望にも、絶望にもくもらされることのない目で周囲を見わたせば、驚くことばかりだ。そこで、覚悟する、という決断が必要になってくるのである。私たちは無意識のうちに何かに頼って生きている。「寄らば大樹の陰」とは昔から耳になじんだ諺だ。しかし、もうそんなことを考えている段階ではない。私たちは、まさにいま覚悟をきめなければならない地点にたっているのである。>(p3~5 「覚悟するということ ―― 序にかえて」より)

「何かに頼って生きている」という言葉がここではネガティブな意味で使われている。たしかに「寄らば大樹の陰」という諺の意味ではそういうことだろう。しかし、「頼る」ということ自体は積極的な意味があるはずだ。むしろ、それこそ五木氏が強調してきた「依り頼み」としての「他力」の思想ではないのか。

<結局、最後のところは、やはり<他力>ということなんだろう」と、最近、深夜に目覚めて、しばしそう思うことがあります。眠れないままにあれこれ考えるのですが、やはりいきつくところはこの、他力、というその一点なのです。>(『他力』〔講談社文庫〕p15

だから、<ギリギリの点まで、「明らかに究める」という努力を捨てたくはない>というのは意外な言葉ではある。それは自力とは言わないのだろう。私たち夫婦としては、ギリギリの点まで、生活保護受給者にだけはならないという自助努力は捨てたくはないのだ。そのためにこそ他力の要請がある。まずは自分たちが置かれている現実を直視し、諦めること、覚悟することによって、無用な考えを制限するための枠が出来る。ポジティブな意味での自己限定である。自己を限定するものは自己ではあり得ない。自分自身で作った枠など簡単に拡げられてしまうからだ。それでは意味がない。自分を限定するものはあくまでも創造主なる「神」でなければならない。哲学的な余計な思考に現をぬかさず地に着いた実際的生き方,考え方をしてゆけるように「神」を要請するのだ。要請される「神」こそコーヘレト的「神(観)」の特徴である。それが偶像か否かといった議論など無用である。要は自分自身にとってその「神」の実在を実感できるか否かということ、リアリティーの強度が基準となる。活きた神関係とはそういうものである。

ちなみに、この『人間の覚悟』は第三章に「下山の哲学を持つ」というのがあるが、前掲の『他力』にも、○囲み25番に「人生の峠にたたずんで考える下山の道」というのがある(p83~)。インドでは「林住期」と言うそうで、自分もその時期に入っている。<五十歳をすぎたら今一度人生をふりかえり、自分の生きたいように生きる、できれば自分のために働くのはやめて、無償でも人のためになることをする。それが「林住期」なのだと思います。>(p95)前半は自分に当らずといえども遠からずだが、後半は全く当らない。「無償でも」というより「無償でこそ」なのだろう。職業で社会貢献という話はあまり感心しない。だから公務員が国民のため、住民のために働いていると言われてもウソ臭いし、その分、報酬を得ているのだから当然だろうと思ってしまう。本当は自分も無償で人の役に立つことをしたいのだが、生活に余裕が無いことを言い訳にしている。それに自分の場合は林住期と言っても、「家族を支え、社会に貢献する時期」と言えるほどの「家住期」(=壮年期)は経て来ていない異例の具足である。自分は生涯学習で余生を過ごすなら60代でのリタイアでは遅いと思っている。もちろん今の年寄りには元気な人が多いし、人によって違いがあるので一概には言えないが、一般的には残り20年としても、かなり衰えるわけで、脳梗塞を1回でもやったら学習活動は極めて困難になるだろう。だから死ぬまで30年は必要だと思う。自分は少し早いが貯蓄など少ししかないのに50歳になる前に定職を退任してアルバイト生活に入った。とにかくギリギリであって、早めに召天すればよいが自分または伴侶が寝たきりにでもなって生き延びるとなると万事休すだ。時間はすべて介護と家事に費やされる。そんな地獄絵図は考えたくはないが、でもやはり覚悟しなければならない。特に伴侶の場合はすでにクスリの影響もあって脳の活動は常人とは違うので、認知症リスクは現実のこととして見究めなければならない。だからこそ「他力」であり「神の力」以外に頼るものはない。これも計画性は不可欠だが、いくら備えてもなるようにしかならない面の方が圧倒的に大きいわけで、余り考え過ぎ、心配し過ぎてもいけない。この言葉は特に励ましてくれる。

5:19(西村氏の注解の訳)「(まことに)彼は彼の人生の日々について多くを思わない。というのは神は彼の心を喜びで占める(答える)からだ。」

過去についても未来についても後悔したり憂いたりするのは程々にしないといけない。そういう悩みは神関係にあっては無用だからだ。むしろ現在の神との関係に喜びを感じることが生きる力となる。それが「神の霊」の働きであろう。

五木氏の『人間の覚悟』では、<じつのところ、私は「教え」としての仏教にはほとんど関心がありません。ただ感覚としての仏教というのは、非常に大事に思っています。>(p123)とか、<「中道」という考え方は「いつも真ん中にいればいいというわけではない。両方を大事にせよということです。」云々と講じたりしていますが)、「私は仏教の教義として他力と言っているわけではありません。」>(p129)という言葉が印象に残った。

2:18 私は日の下で労するわが労苦のすべてを厭わしく思

     った。私はそれを私の後を継ぐ人に残すまでのこ

     と。

  19 それが賢者になるか、それとも愚か者か、誰が知ろ

     う。しかも日の下で私が労苦し、知恵を尽くした労

     苦の〔実の〕すべてを〔その〕彼が治めることにな

     る。これもまた空である。

  20 改めて私は、日の下で労苦〔し、知恵を尽く〕した

     労苦のすべてについて、心に絶望した。

  21 たしかに、知恵と知識と才覚を尽くして労苦しなが

     ら、その配当を労苦することのなかった人に与えな

     ければならない人がいる。これもまた空であり、大

     きな不幸である。

 

西村氏の注解では 、18節が「また私は日の下で私が労するすべての業を憎んだ。それは私の後に来る人に残さねばならないからである。」(ここで言われている「人」は「死後生れて来る人でなく、彼の死後、その位置を占める後継者のこと(略)子供ではなくて、アダム。息子ではなくて、後継者(コーヘレトは独身者で子供がなかったか。〔後略〕)。」と記されている。)、19節が「そして誰が知るか、彼が知者であるか、愚者であるか。日の下で私が知恵を働かせて労したすべての労苦を彼が支配することになるのだ。これもまた空である。」、20節が「私はまた日の下で労したすべての労苦に対して私の心を絶望させるように向かった。」(「心」は「1:13参照。存在の全体を表す。」と記されている。)、21節は「ここに人があってその労苦が知恵と知識と才能をもってなされたとしても、彼の遺産を(そのために)労しなかった者に与えねばならない。これもまた空しく大きい不幸だ。」

すでに頻出の「日の下」という訳には「ひのもと」とルビがふられている。内容は前回の続きだが、本来は18節の後に2:12(私はまた顧みて、知恵と暗愚と愚昧とを見きわめようとした。王の後を継ぐ者〔が行なうこと〕とは何か。彼はすでにあったことを行なうまでのこと。)がくると注記されている。このあたりは、後継者問題に悩む企業経営者が読めば共感するだろう。自分が苦労して積み上げてきた実績を受け継ぐ者が愚息となれば不安であること無理もなしである。しかしそういう財への執着がすでに「絶望」なのだ。創造主との関係が冷えているからだ。関根清三氏はこのようなコーヘレトの言葉に「後世に対する嫉妬」を指摘したクリューゼマンなる人物に同意し、<このような嫉妬とは、八木氏の指摘されるとおり、「エゴの充実と完成」を「自惚れ」ることが不可能になったエゴイストの「苦悩」にほかならないでしょう。コーヘレスは嫉妬する以外、後世に対しては、自分の子も含めて関心を示しません。親や隣人は視野にすら入ってきません。女性も概して軽蔑の対象でしかありません。その他たとい他者に関心を抱く場合もコーヘレスは結局、己の利益になるか否かというエゴイズムの視点でしか見ることができなかったように思われるのです。>云々とボロクソに書いているが(『倫理の探索』〔中公新書〕p2526 ※ここで俎上にあげられているのは2:1819だが、注釈にあるとおり、6:37:26以下のことも含めて述べられている。)、私は方便として読んでいる。記者の人格を非難したところで意味はないのだ。このコーヘレト書が他でもなく「聖書」の一書であるということ、そして聖書の読み方としては関根氏のような読み方は浅いということを感じずにはおれない。関根氏は御自分の神関係を通してこの書を読んでみたのだろうか?一般の古典文献として読んでいるだけのような気がする。これは単なる随筆ではないのだ。聖書は自分自身の「神」との関係の媒体だからこそ「聖」なる書となるのであって教会の正典だからではない。そして自分の神関係を通して読むなら、コーヘレトの表面的には俗物的文言も、すべて創造主の恵み、言わば「他力」を説くための方便として受けとめ得るのだ。この2章の場合で言えば、次回に読む箇所の24節の知恵を際立たせるための伏線である。諦めること、明らかに究めることは自分の人としての限界、罪悪深重を自覚することを抜きにしてはあり得ない。否定媒介である。
五木氏の『人間の覚悟』の読書話に戻るが、今回、いちばん自分の心に残ったのは、「親鸞の唱えた悪人正機説は、生きている人間はみな必ず悪を抱えているという意味であって、善人と悪人を隔て分けて、悪人こそすくわれると言っているのではありません。」(p73)という言葉である。これは後の方でも、<そもそも、ヨーロッパやアメリカで罪の意識というものが成立するずっと前から、日本では法然や親鸞が「罪業深重のわれら」と言い、人間はすべて罪人であるという深い認識に立って、念仏信仰が生まれています。>(p111)と書かれているとおり、「人間はすべて悪人・罪人」という現実認識は、「人生は苦である」という現実認識と共に、キリスト教などには欠けたものとして私には深く共感させられることだ。私はイエスだけが例外だった(ヘブル4:15「罪を別にすれば」)とは認め得ない。聖霊充満という特別な面があったことは認めるが、それも理性的に考えて、歴史上の出来事として異常とまでは言えない範囲でのことだ。イエス・キリストを我々が生きている歴史的現実とは別のところで信じることはキリスト教という宗教の「非歴史性」を意味する。あくまでも人間が生きているこの歴史の中にイエスという人を捉えるのでなければ、聖書の宗教は決して「歴史的宗教」などとは言えない。イエスも我々と同じ「罪悪深重煩悩熾盛の凡夫」だった。ただし我々と違って「神」から特に選ばれ、聖霊を充分に受けた人であった。しかし自我を持つ点では親鸞聖人ももちろん、人間は例外なく全てそうなのだ。だからいかなる「偉人」も美化したり神聖化してはならない。「聖人」はあくまでも敬称である。

 

2:22 実際、日の下で労苦し、労苦の限りを尽くし、心で

     辛い思いをする人に、いったい何が残るというの

     か。

  23 実に、彼の全生涯は痛みの連続、その営みは憂いそ

     のものであって、夜も心は休まらない。これもまた

     空である。

  24 食べて飲み、自分の労苦に幸せを見てとること、

     これ以外に人の幸せはない。

     私は見きわめた、これもまた神の手による、と。

  25 たしかに、本人をおいて誰が食べ、誰が煩うのか。

  26 たしかに、神は善人と判断される人に知恵と知識と

     快楽を与えるが、罪人には〔富〕を集め、かつ蓄え

     る務めを与え、〔その蓄えを〕神に善人と判断され

     る人に与えてしまう。これもまた空であり、風を養

     うことにほかならない。

西村氏の注解では、22節が「まことに人間にとって、日の下で労する彼のすべての労苦と心の追い求めに何があるか?」、23節が「一生彼の労苦は痛み(憂い)と悩み 夜も彼の心は休まらない。これもまた空である。」、24節が「人にとって食べることと飲むこと、彼の労苦で得た良いものを彼の魂に見させることより良いことはない。これもまた神の手によることを見た。」、25節が「私以外に、誰が食べ、誰が楽しむのか。」、26節が「神は彼の前に良い者には知恵と知識と喜びを与え、間違うものには労苦を与え、集めて積ませ、神の前に良い者に与える。これもまた空であり、風を追うことだ。」と訳されている。24節で言われている「幸せ」については注釈で、<分に応じた現前の生の享受の勧めとも読めるが、「労苦」に「幸せ」を見るという点は逆説的。>とある。コーヘレトの「神(観)」については解説にあるとおり、固有名詞の「ヤハウェ」とは言われず普通名詞の「エロヒーム」で表わされているが定冠詞の付いた箇所もあり、それによって「あの神」と言うような関係性が示唆されている。25節は「神なしに食べて楽しむことはできない」と解することも可能なのだそうだ。そうであればまさに「神」にこだわり、「神関係」を第一とすることは飲食と同じくらい切実で大切なことだということになる。決して観念の遊戯などではないのだ。生活がかかっている。23節の「憂い」は今の自分にとって痛感し得るところである。24節の知足の幸は、「神の手による」もの、すなわち摂理として見きわめられなければあり得ない。その見きわめは、いくら言葉を尽くして伴侶に伝えても理性より感情が先に出るからなかなか難しい。とても現状に「幸せ」を見出すことは出来ないようだ。鬱のマイナス思考は深刻である。本人も頭ではよくないとわかっていてもどうしようもないらしい。26節は現代社会に置かれた自分にとっては資本主義とか格差社会の矛盾、不条理と関連付けて読んでしまう。正直者はバカをみる・・・ではないが、頑張る人がその分、報われる社会というのはキレイゴトである。私は個人作業にこだわるのも、これまでチームワークの仕事では自分が真面目にやっても不真面目な人のために報われないこと、それより要領がいいとか社交性があるとかいった人が真面目さとは関係なく得をするケースを経験してきたからである。
特に老子の言葉を想起させられた。44章の「知足不辱、知止不殆」は、「足るを知れば辱(はずか)しめられず、止(とど)まるを知れば殆(あや)うからず」と読む。文脈は名誉や財産を重んずる生き方の批判である。つまり「名誉や財産にとらわれず満足する事を知れば屈辱などとは無縁になり、ほどほどを心得ていれば自らを危険にさらす事も無い」ということ。

五木寛之氏が『人間の覚悟』で、憲法二十五条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」について、<権利がある、ということと、国によってそれが保障されている、ということはまったく別物なのです。国があり国民があるということの意義は認めつつも、国や法律が自分自身の身の周りの様々なことまで守ってくれる、と考えるのは見当違いです。もちろん、生老病死といわれる人生の「四苦」、心の中の苦しみなどは国の関知するところではありません。>(p90)と述べていることはけだし至言であると思う。日本人は良くも悪くも、国立,国産幻想、公務員幻想が強すぎる。とにかく出来得る限り、生活保護の受給申請などせずに済む人生設計をし、厳しい経済状態の中にあっても自助努力を惜しんではならないと思う。日本的「恥」の感覚には悪用された部分もあるが、有意義な部分も含まれている。その「恥・辱」の感覚までもが失われたら人間おしまいと思うくらいの危機意識が必要だ。「知足不辱、知止不殆」・・・この後に「可以長久」(もって長久なるべし)とくる。つまり「この様にして安らかに暮らす方が良い」ということ。

参照:http://blog.mage8.com/roushi-44

コーヘレトの思想に近い感じがする。ただ、「神関係」を前提としているか否かの違いが大きい。なお、33章では「知足者富、強行者有志」(=「足るを知る者は富み、つとめて行なう者は志有り。」=「満足する事を知っている人が本当に豊かな人間で、努力を続ける人はそれだけで既に目的を果している。」)、32章では「名亦既有、夫亦將知止。知止所以不殆」(=「名亦た既に有れば、それ亦た将に止まることを知らんとす。止まることを知るは殆(あや)うからざる所以(ゆえん)なり。」=「名前がつくと他の物との区別が生じてそれが行き着くと差別となる。だから物事の区別は程ほどにしなければならない。程ほどにしておけば危険が生じる心配が無い。」)とある。

3:1 日の下では、すべてに時期があり、すべての出来事に

    時がある。

  2 生むに時があり、死ぬに時がある。

    植えるに時があり、植えられたものを抜くに時があ

    る。

  3 殺すに時があり、癒すに時がある。崩すに時があり、

    建てるに時がある。

  4 泣くに時があり、笑うに時がある。

    嘆く時があり、〔喜び〕跳ねる時がある。

西村氏の注解では、1節が「すべてに時期(季節)があり、天の下のすべての出来事に時(機会)がある。」(「時(機会)」は「あることを正しくするための正確な時(後略)。」と記されている。)、2節が「生まれるに時、死ぬに時、植えるに時、植えられたものを抜くに時。」、3節が「殺すに時(があり)、癒すに時(がある)、壊すに時、建てるに時。」、4節が「泣くに時、笑うに時、悲しむ時、踊る時。」と訳されている。

この3章の「時と永遠」の箇所は、教会では葬式で読まれることもある。しかし3節の「殺すに時があり」は場違いな感が否めない。ATDでは「時」に関して次のように記されている。

<広がりを持った時、期間ではなく、点としての時、カイロスと解されるべき「時」の重要性についてコーヘレトが考えているので、彼もまた、まさに一般的知恵の思想線上にあるようにまずは見えるかもしれない。「存在と時間」や実存の「歴史性」という問題に悩んでいる時代にとって、人生のすべてが「時(カイロス)」に結びつけられていることについて徹底して問うコーヘレトは、意外なほど同時代的であるように思われる。(中略)期間と時点と区別して理解すること、すなわち、コーヘレトの「時の陳述」の理解の規範に対するこのような鋭敏でない理解は、九章11節の(※)エート・ヴァーフェガア「時と偶然」という表現によって否定される。「突然に訪れる時」についての主張は九章12節によって示唆されている。>(※はヘブライ語表記。)

インタープリテイション日本版の第63号「特集 コヘレトの言葉」に収められている《テクストと説教の間》コヘレトの言葉3章1-8節(~E・C・ブリッソン)113頁以下から一部引用。<この哲人の知恵に関する最も一貫した肯定的見解は、時に関する彼の教訓の中にあり、それは『コヘレトの言葉』第三章の冒頭に置かれた、強烈な印象の、そして今となっては有名な詩のなかで表されている。この詩――その少なくとも一部はどこかに典拠を持つものかもしれない――は、今が何の時であるのかを知ることの徳を賢者に終始一貫して勧めている。その詩は人間の行為と経験についての一四の対照的な組合せとして展開する。ここで与えられた文言によって、時を知ることと知恵との関係についてのコヘレトの見解(三の二―八)を、読者や聴衆が吟味できる。大きく捉えてみると、これらの一四組の対立項は詩に完全さの響きを与え、また一四の数は、複雑な世界を創りあげ、またさらに水浸しにするのに必要な日数を象徴しているのかもしれない(中略)。三章五節の石を集めたり投げたりの曖昧なくだりについてコメントなしに済ますことはできまいが、説教者は、あるいはおそらく教師もまた、話を聞く共同体のためには、これらの組合せの対比を一々詳しく説明するのを避けたほうがよいだろう。一行ごと、あるいは組合せの縦横なパターンについて一つ一つ扱うよりも、コヘレトの思索が展開する広い舞台の上でいかに詩が機能するか、これを示唆し得るイメージを喚起する方が、説教や講話において有効だろう。>(p116)・・・・こう言って記者は、「宙づりになった車輪として時をイメージする」比喩により説明している。傑作だと思ったのは終わりの方で、「私は二つの行いを勧めたい」(p117)と述べ、「説教や講話の際、大きな声でコヘレトに四たび感謝の言葉を述べよう。見者としての彼に、その営みにおける勇気と率直さとに感謝しよう。次に宗教哲学者としての彼の教えに、すなわち、契約における正しき応答へのいざないとして、困難のときも順風のときも、時を知らねばならない、という教えに感謝しよう。詩人としての彼に、(中略)巡礼者としての彼に」感謝することを勧めていることだ(p118)。コヘレト教とでもいった宗教が生まれそうだ(笑)。

締めくくりの要所は、「クロノス(量的時間)の無視や軽視、乗越えや廃棄ではなく、クロノスをさらに高めた時、時そのものの瞬間毎の究極的な悦ばしき贖いと再創造によって、実に、時自体が更新され、その時は満ち足り、空しさではなくなる。」(p118)というところだろう。でも意味はよくわからない。イエスの「時は満ちた(ペプレーロータイ ホ カイロス)」(マルコ1:15)の終末的な「救いの時」が今成就した(「ペプレーロータイ」は「プレーロー」〔満たす、成就する〕の三人称単数の現在完了形の受動態)、その「時」と関係ありか?

月本訳(岩波版)では、この箇所の要点は注で記されている。<以下、一四対の相反する行為を列挙し、一方で、日常的な行為や出来事にはすべて一定の「時」があると語り、他方では、そうした「時」は神によって定められた永遠の相の下にあり、人間には見きわめ得ないという(三11、七14、八7他参照)。「時期」の言語ゼマンはアラム語からの借用語。巻末用語解説「時」参照。> とのことで、まず、参照聖句を挙げておく。

3:11   神はすべてをその時にかなって美しく造り、加え

     て、それらの中に永遠〔性〕を付与した。※ だが

     人は、神が造った業の初めから終りまでを見いだす

     ことは〔でき〕ない。

(注)<すべての事象が永遠の相の下におかれているということ。「彼ら(=人の子ら)の心の中に永遠〔性〕を与えた」とも読めなくはないが、原語上、多少の不自然さがのこる。>

西村氏の注解では、<すべてを彼はその時に(かなって)美しく(ふさわしく)作った。また「(時空の)持続」を彼らの心の中に与えた。人は神が始めから終わりまでなす(なされる)ことを見出すことのないままに。>と訳されている。その他、詳しくは後述。ヘブライ語の「時」は女性名詞「エート」(または「エース」)でギリシャ語の「カイロス」に相当する。3:1で「時期」と訳されている語は前記の引用で「ゼマン」と言われている。有賀氏は3章1~8節の箇所で「時機」(ethという概念に注意を促して次のように述べている。<肝要なことは、その全体を通じての意味が何であるかを知ることである。そして、それはいうまでもなく繰り返し用いられている「時機」なる語の解釈にかかっている。それはギリシア語のカイロスに当たり、セプツアギンタでは正しくもその語を以て訳している。それにしても、それがここで如何なる意味に用いられているかが問題となる。それは何かを為すに「適切な時機」の意にも取られ得るし、或る事が正に生起すべき「定められた時機」とも取れる。もし前者の意味に取るならば、右に掲げた言葉は主として実践的な勧告でしかないであろう。だが、それよりも更に基本的な意味として「定められた時機」の意に取れば eth はもっと哲学的・原理的意味を得る。その時機が来れば必然的にその事は生起する、その必然性の原理がこの語によって表現されているのである。恐らく、この意味に解することの方が正しいと考えられる。それでは今一つの語
zeman―― ここには単に「時」と訳した ―― は何を意味するのであろうか。この語は旧約では極めて稀にしか出て来ないものであって、古代ペルシア語の zrvan 又は zrvana がアラム語を経てヘブライ語彙のうちに入ったものとも推定されている。けれども抽象的時間の概念は元来ヘブライ人には欠けていたので、この語も一般には `eth と同義に、すなわちカイロス(occasion;season)の意味に用いられていたのである。だがここにコーヘレトはこの語をそう解しているのか、それとも「時機」と区別された意味での「時」すなわち抽象的・客観的な時の意に用いているのか。いずれにせよ、セプツアギンタの訳者は両語の区別を認識して、zeman をホ・クロノスを訳している。もしそれがコーヘレトの真意を穿ったものであったとすれば、旧約聖書においてただこの一箇所だけに抽象的時間の概念が出て来るものと認めなければならないでもあろう。それがコーヘレト自身によってただ一回だけ用いられているとしても、かれの思想の全体と連関させてそれがかれにとって重要な意味を持つものと解することも可能であろう。少なくともマクドーナルドはその点を強調し、コーヘレトにとって一切は「時のうちに」起こるものと考えられていたと論じている。けれども、そうはっきり云えるかどうか、私には疑問がある。一つには、その語がただ一回ここにしか用いられていないということ、二つには eth の場合と同様 zeman の場合にも前置詞 be(=in)はついておらず、却って「一切」なる語の前に前置詞 le(=to)がついていること、三つには同義語を重ねて用いることはヘブライ対句の精神に一致していることなどが思いつかれる。だから、コーヘレトが抽象的・客観的時間の概念をそれほど明瞭に抱いていたとは思われないが、一切が正にその生起すべき時機または時点とともに生起するものであるとすることがコーヘレトの思想であることは疑う余地がない。かれは右の引用句において、生まれ・死ぬという人間存在の基本的対立と戦争・平和という社会的に最も重要な対立との間にさまざまな対立を置いている。それは一つの事が起これば、それの否定または反対の事実も亦必ず起こるということであろう。そして、その事は「何の yithroth もない」すなわち「差引して何も残らない」というかれの結論の根拠を成す一つの観察である。だからコーヘレトは三・一 - 八につづいて直ちにまた「働く者はかれが労するところによって何の益(yithrothを得るか」と言っている。それは人間が事を為すのに正しい時機を見出すことを得ないという嘆きではなく、何を為しても必ずその反対の事が起こって元々に還元して了うとの意味に解すのが正しい。そして、その後に更に次の言葉が語られる。
「われは神が人の子等に与えて労せしめたもう労苦を見た。神は一切を、それの
時機において美わしく造りたもうた。彼はまた彼等の心に、測り知られないものを与えたもうた。それは人間が神のなしたもう始から終までの御業を見出し得ないためである。」
一切はその起こるべき時機に必ず起こるのであるが、その時機と必然性とはただ神にのみ知られているのであって、人間には断片的・部分的に知られるに過ぎない。神は一切の現象をそれぞれの時機に従って生起せしめるのであって、それは確かに「美わしい」に違いない。けれども人間にその「美わしさ」が完全に把握できるかと言えば、それは不可能である。神の必然は人間にとって偶然でしかない。そこに人間は不可解なものに出会う。ここに
コーヘレトが神の存在を疑っていないことは注目されてよい。かれは神をヤハウエとは呼ばず、ただエローヒームと呼んでいるから、民族的色彩は稀薄であると見なければならないが、それにしてもかれの体系(それをそう呼ぶことを許されるとすれば)は神の存在を要請する。一々の時点または時機において起こるべきものが起こるのであるが、時がそれを起こすのではなく、それを生起せしめる意志が別に考えられなければならない。何故ならここには自然科学の問題が取り上げられているのではなく、人間存在とそれに連関しての自然現象が問題とされているからである。その立場から、時点または時機なる概念と神の概念とは相互に要請し合うものであり、両者は相関関係のうちにある。先に抽象的・客観的時間、ガリレイ・ニュートン的ともいうべき時間の概念がコーヘレトにあったか無かったかを問題としたが、かれにとって中心的なものは、そのような時間ではなく、人間存在と連関して考えられたこの時あの時である。だからこそそこにかれは不可解なもの、そこに働く超越的意志を感得せざるを得ない。それゆえかれの「神」(elohim)は伝統的ヤハウェ神の概念とは甚だしく離れているようであるが、なおかれの哲学をヘブライ思想の流れの中に把握することは可能でもあり、又それが妥当でもあると考えられる。けれどもコーヘレトの神は自己啓示の神ではなく、全く自らを隠す神、近き神ではなく遥かなる神である。その神の意志や計画を人間はその知性を以てしても又その道徳的規範に照らしてみても測り知ることはできない。しかしながら、その知られざる神、交通不可能な神が実在するということは、これほど確実なことはかれにとって無いのである。コーヘレトは神をただ天上高きところに祭り上げているのではない。むしろ、かかる神の存在の要請がかれの思想を成立させる根底にあることを見逃してはならない。(中略)その神の意志は測り知ることを得ないとともに、また人間がそれをどうすることもできないものである。「われは知る、凡て神の為したもうところは永遠にかく有るであろうことを。何ものもそれに加えられることを得ないし、また何ものもそれから取去られることもあり得ない。神は人々が神のみまえに畏れんために、それを為したもうたのである」とコーヘレトは言っている。かれの教える「神の畏れ」は人間がその「日の下」「天の下」「地の上」なる限界を弁えてそれを超えようとしないこと以外のものではない。>

 この、「神の畏れ」が「限界を弁えてそれを超えようとしないこと」であるという指摘が非常に重要に思われる。この限界自覚が却って信仰に於ける自由を実感できる要件となるからだ。限界がなければどこまでも欲が働いて煩悩が尽きない。その苦しみは測り知れず、狂気に至ることもあり得るだろう。なお、ATDでは11節に関して次のように記されている。

<コーヘレトに固有の「なるほど~だが」という表現形式を用いて認識された事実を述べている本節の叙述は、その前半部で、創世記第一章の祭司資料の創造記事に精通していることを指し示している。神がすべてを「良く」創造された(一章31節では「すべてははなはだ良かった」と強められている)という称賛が、創世記では神の毎日の仕事を通じて響いているように、本節においても、神がすべてを「美しく」創造されたということが認められている。伝道の書三章11節の「美しい」は「良い」の全くの代替語であろうか、あるいはこの語に創世記一章に対する抑制した表現が意図されているのだろうかという疑問が生じることであろう。それ自体としては、神の創造行為に関してなにものをも減ずることはないが、コーヘレトに特有の、良いものを人間がつかみ取ることに存する限界を既に予感させる制限が、「それぞれの時に応じて」という付加の中に存在している。その点で、神の創造の優位性が、確かに、創造についての飾り気のない言葉から、まず最初に取り出されている。第二イザヤが明るい称賛の中で、彼の時代のあらゆる物事とまたすぐ次にくる事物の被造性について(※)バーラー「創造する」という単語で語っているように、コーヘレトもより一般的な(※)アーサー「作る」という単語で(創一71625)、神が時の流れの中で創造し、生じさせることについて語っている。物事は神の前に調和して「美しい」とコーヘレトは信じている。いずれにしても、人にはそのよく意味深い関係を測定することはできない突然に訪れる時という謎の中で、人は神に出会うのである。更に進んで、神は人間の心に「永遠」を与えたと言われているのであるから、この点において、もちろん全く自由な新解釈の形ではあるが、再度創世記一章との関連が認識されるべきであろう。創世記一章26節は、それが人間を動物たちから際立たせる人間の神の姿への類似性について語っている。詩篇第八篇も参照できる。コーヘレトはこのような高揚した表現で人間の特別な「傑出」について語ることはできない。コーヘレトは、人間の傑出性を、人間の心に与えられている「永遠」について語るとき、彼なりに解説している。この(※)オーラーム「永遠」の詳細な定義は、確かに議論の余地が大きい。(中略)いずれにしても、テクストの変更は放棄して、「神は人の心に永遠を与えられた」というテクストを、一章13節が勧めていると思われる方向で理解しなければならないであろう。それによれば、神は人々に、「知恵によって」時間を超えて過去と未来について問うという、ひどい苦労を与えたのである。このような仕方によって、コーヘレトは人間の特殊性を見るのである。「人は自分の時を超えて問わなければならない」。人は「広大な時の経過」(=※)を見いだすが、そのことは、時の推移の定めと時(※〔カイロスの複数〕)の順序について問わなければならないということが人の心に定められているということを、すぐさま意味するのである。(中略)コーヘレトは、神の業の良さも、また聖書の創造記事に記されている人間の他の被造物に対する傑出性も、疑っていない。しかし、この神と人間の特殊性とへの信仰告白と並んで、まさに人間に特有の優越性に関連する人間の限界という苦難が、確かに存在しているのである。>(p344347)(※は原語)

 

7:14   幸いの日には幸いであれ。

     災いの日には〔災いを〕見つめよ。

     人間が後のことを何一つ見きわめ〔られ〕ないよう

     にと、神はあれもこれも※ 造り出したのだ。

 

(注)※「幸いの日も災いの日も。」

西村氏の注解では、「順境には楽しめ、逆境には考えよ(見よ)。神はこれもあれと同じように造られた(造られている)。人が彼の後に何も見出さないためである。」(「見よ」については、<「考える、熟考する」。過去の業を見るのみならず未来の業を見ることをも含む。>、「神は・・・・造られた」については、<「神がなされた」こと、あるいは「神のなさる」こと。現在時制は、神の進行中の業を強調(後略)>、「これもあれと同じように」については、「人間の目には、理由なく、無秩序に、ということか。」と記されている。)と訳されている。

 

8:7 たしかに、人は〔将来〕何が起こるかを知らない。

    たしかに、誰が人に〔将来〕起こることを告げうる

    か。

 

西村氏の注解では、「というのは何が起こるかを知るものはいないのだ。なぜなら何時起こるかを誰が彼に告げることができようか。」と訳されている。

次に、月本訳(岩波版)の「時」の解説を写す。

時(`et 抽象的な時間の流れではなく、事が起こる、神ないし人が事を起こす個々の時期ないし時点(カイロス).コーヘレト書によれば、すべてのことに時があり(3:18:6)、それは神の定めによるが(3:17)、しかし人間にはそうした時を見通し得ない(3:118:79:12).コーヘレト書において「時」以外の訳語をあてたのは8:9「時代」、9:8「つねに」(<「すべての時に」).9:11では「時と偶然」を「不慮の災難」と意訳を試みた.>

ここでも参照聖句を挙げておく。

 

8:6 たしかに、あらゆる出来事には時と審きがある。

    たしかに、人の悪は自らに重くのしかかる。

 

3:17 私は心の中で言った、

    義人と悪人とを神は〔区別して〕裁くであろう、と。

    すべての出来事に時があるということは、

    あらゆる業を神が定めた※、ということだから。

 

(注)※<原語の末尾「そこに(シャーム)を「据える、定める(サーム)」と読み替える。>

西村氏の注解書では、8:6が「まことにすべてのこと(経験)にふさわしい(裁きの)時がある。しかし人の悪が彼の上に大きいのだ。」、3:17が「私は心に思った。義人も悪人も神は裁かれる、というのは、すべての事柄に、すべての業(実現)に関して時があるからだ。かしこには。」(「神は裁かれる」について、<神が裁きをされるというのは、コーヘレト自身の考えか(55119参照)。コーヘレトは死後の裁きに関して関心を示さないので、17節aを編集者の付加、また引用とするものが多い(略)。だが、コーヘレトは裁きそのものを否定はしていない。今すぐには裁きはないように見える。(略)神は時を定め(91にあり)、遅かれ早かれ、神は裁く。だがゴーディスは、この地上にではなく「かしこにおいて」、すなわち他界、死後の時として風刺的にとる。裁きは人間の認識を超える。すべての実現はこの世でなされるとは限らない。>と記されている。)と訳されている。

 

9:12 実際、人は自分の時さえ知りえない。

    不幸にも網にかかる魚のように、

    仕掛け網に捕まる鳥のように、

    不意を襲う災厄の時、

    人の子らもまた絡めとられる。

 

西村氏の注解では、「まことに人間はその時さえも知らない。魚が不運な網に捕らえられ、鳥がわなに捕らえられるように、人の子らは悪い(不運な)時に、突然それが襲う時、わなにかかる。」と訳されている。

※他の9章の参照聖句は今日のテキストと直接関係ないので省略する。

「時」は観念であり実体は無い。時間と空間の枠というのはカント的によれば「一切の感性的直観の二つの純粋形式であり、これによってアプリオリな綜合的認識が可能になる」といわれる。要するに主観の形式であり、時間と空間それ自体は実在しない。人間の思考・認識は直観にはじまる。人間の認識は基本的に「対象認識」であり、それはポスト・モダンの哲学などではネガティブに言われる。

私は理性第一主義者であり、その理由は宗教は理性を第一にしないと福音派原理主義やカルト宗教のように狂信および精神異常という人として最低最悪の状態ににつながる危険があるからだ。聖書の神話的記述はあくまでも現代人の理性に耐え得る範囲内に制限されて然り(非神話化)。いかに聖書を神の無謬の言葉だと規定してもこれを文字通り信じ込んで逐一歴史的・客観的事実であると認めることは信仰的にみても、けっして健康的なことではない。また、歴史的現実以外の現実を認めることも程々にしないとリアリティーを得られない。リアリティーなき宗教はイデオロギーの浸食を受けて形骸化する。もっとも「理性」(~ディアノイア/ロゴス、ラチオ、レイゾン、リーズン)とひとことで言っても定義はいろいろであり、カントのいう理性なら実践理性といったところだろうか。人間の精神の能力は、「感性」「悟性」「理性」の3要素に分けられ、それぞれ根本形式を持つ。「感性」は外界の印象を取り入れてまとめあげる。すなわち感官を通して事物対象を表象し受け取る「直観能力」。「悟性」はその「表象」を統合して判断にもたらす「概念的判断の能力」。この「悟性」の形式に「カテゴリ-」(純粋悟性概念)、「先験的統覚」、「図式」、「原則」がある。つまり「感性」に「時間、空間」という形式があるように「悟性」にも対象を概念的に判断するための「分量、性質、関係、様態」といった基本形式があるのだ。ちなみに「カテゴリー」について言えば、カントはアリストテレスの10(実体、分量、性質、関係、場所、時間、位置、状態、能動、受動)を批判的に縮小して前記の4つにした。「理性」はその判断された諸対象から推論によって世界の全体像に迫ろうとする(主として)「推論の能力」。それが思考である。この中で「感性」は基礎となる要素であり、どんな対象も「感性」を通してやってくるが、「感性」は外的対象をそのまま取り入れるのではなく、それを一定の形式におき直して取り入れている。感性の形式性は先天的・生得的である。時間と空間はこの「感性」の根本形式である。「時間」も「空間」も枠組みであって客観的には「無」であり「事物」ではない。だから、「時間」と「空間」は感性のアプリオリな形式性原理といわれる。あくまでも「直観の形式」であって「経験的に認識される対象」ではなく、「人間の感性の基本形式」なのだ。だから人間はどのような対象であれ、時間と空間という基本的枠組みを通して捉える。つまり「リンゴ」であれ「ネコ」であれ、それらの認識対象の「それ自体」を知ることは出来ないのだ。何故なら感性(五官)というフィルターを通さずして、それを直接、把握することは不可能だからだ。そこに「事象そのものへ」というフッサールの現象学的還元の前提がある。要するに人間は先入見なしに認識できないので、その先入見を入れずに直接、意識に現われるものを捉えること、八木誠一氏が「カッセルの体験」で得た「廓然無聖」の「純粋直観」である。それは前述の「対象認識(=<この世界もしくは自己内部に現われる一局面ないし一局部を孤立的にそれだけで立て、これを中心として全体の「統一」を志向する>)に対するものだという(『神はどこで見出されるか』〔三一書房〕p261)。<私は驚いて立ち上った。何ひとつ変ってはいない世界の相貌が一変して見えたのである。しばらくあたりを見廻していた私は窓外を走り去る木立を眺めながらしみじみとこう感じた。「いままで樹は樹だと思っていた。何という間違いだったろう」。>(同、p67)奇妙な話ではあるが、日々の生活に追われている者からすればしょせん観念論者の錯覚であり、大した意味はない。そんな「直観」で労働し、飯を食べてゆけるわけでもない。しかしこれも「神」が定めた個々人の分であり、それ相応の持ち時間とタラントなのだ。八木氏のように宗哲者としてのタラントを得ていない者が妬むのはおかど違いだし、自分の限定を抜きにして考え過ぎてはいけない。時間と空間の形式は、宗教的には「(創造主なる)神による規定」と言い表すことになる。それでよいのだ。神ご自身がその規定を身に受けられたなどと考える神学者は私見では愚か者である。しかもそのくせ己が思想を「歴史的」であるなどと放言するからなおさら愚かしい。歴史現実は一つ。史観は多様であり得ても史実はいろいろであってはならない。従って歴史認識に正誤,白か黒かが争われるのは当然のことだ。しかしどこまでいっても歴史記述に相対性はつきものだ。「神」はカント哲学に於いて「絶対的最高存在者」としての「純粋理性概念=理念」であり、「自由」と「霊魂」も純粋理性の推論によって得られる。自然法則を扱う理論理性では及ばない「神、自由、霊魂」は、道徳法則を扱う実践理性により道徳的行為の根拠として要請されるが、それが(不可知の)「物自体」というのではなく、「物自体=世界それ自体」の世界である「叡智界」に属す事柄という意味である。すなわちこの「可想界・叡智界」は「神」の知性によってのみ認識され得る世界であり、これに対して人間が認識する現象的世界は「感性界」であり、こちらの法則は「因・果」である。上記のとおり人間の認識対象は感性(五官)を通して現われてくるものであり、「物自体」を認識すること、対象化することはできない。しかし意識の上では「物自体」を得ていることもまた事実である。あとは自分がリアリティーを実感できる「(創造主である)神」を信じるか信じないかだけのこと。そこに「啓示」ではなく「要請」(公準)というものがあり、私見ではコーヘレトの宗教(哲学)もその傾向がある。しかし「啓示」と「要請」とは分離できない。カントのような理性宗教も啓示宗教であるキリスト教を背景にして成り立っている。「要請」するにしてもその媒体となる啓示・啓典(=聖書など)なしに歴史的現実に通用する宗教は生まれ得ない。私のような下層の肉体労働者にとっては(宗教)哲学などかじる余裕もなく、ただ、コーヘレト書から学ぶ「創造主との関係に於ける知足、知止」の実際的知恵により進み行くのみである。そう、もはや遠くはない定められた「死ぬ時」に向かって、永遠の「神関係」(救い)を信じつつ・・・。

3:5 石を投げるに時があり、石を集めるに時がある。

    抱擁するに時があり、抱擁を避けるに時がある。

  6 探すに時があり、失うに時がある。

    守るに時があり、棄てるに時がある。

  7 裂くに時があり、縫うに時がある。

    黙るに時があり、語るに時がある。

  8 愛するに時があり、厭うに時がある。

    戦いの時があり、やすらぎの時がある。

西村氏の注解では、5節が「石を投げるに時(があり)、石を集める時(がある)、抱くに時(があり)、抱くことから遠ざかる(止める)時(がある)。」、6節が「探すに時、破壊(消失)するに時、(見)守るに時、捨てるに時。」、7節が「裂くに時、縫うに時 黙するに時、語るに時」、8節が「愛するに時、憎むに時、戦いの時、平和の時。」

月本訳の注釈によると、5節は家造り(石=基礎の石組み)、男女の交わり(隠喩)、商取り引き(石=計量石)など様々に解釈されるが、いずれも確証を欠くという。私は、「抱擁する」との関係で男女の交わり(隠喩)説に関心はあるが、隠喩といっても意味がよくわからない。8節はわかりやすい。ついでに夫婦喧嘩にも時があり、仲直りにも時があり、また最悪の場合、別れるにも時があり、寄りを戻すにも時があると言いたい。でも今の自分にとっては引っ越しにも時があるということ。全ては創造主の聖定の中にしか生起しない。

ちなみに(私はカルヴァン主義とは関係ないが)ウェストミンスター大教理で「神の聖定」についてどのように言われているかと言うと、<神のみ旨の計画(1)の、賢く、自由な、きよい決定であり、それによって神は、永遠から、ご自身の栄光のために、なにごとによらず時間の中に起こってくるすべてのこと(2)、特に、み使と人間に関することを、不変に予定された>のであり(1 エペソ1:11、ロマ11:339:141518 / 2 エペソ1:411、ロマ9:2223、詩33:11)〔問答12参照〕、何を聖定したかと言えば、<神は、永遠不変の聖定によって、彼の全くの愛から、その栄光ある恵みがたたえられるため、定められた時に現わされるように、あるみ使を栄光に選び(1)、またキリストにあって、ある人間を永遠の生命と、それへの手段に選ばれた(2)。また、彼の主権的み力と、(それによってみ心のままに愛顧を施したり、差控えたりなさる)ご自身のみ旨の測り知れない計画に従って、その正義の栄光がたたえられるように、残りの者を見捨て、彼らの罪に対して加えられる恥と怒りにあらかじめ定められた(3)>のである(1 Ⅰテモテ5:21/ 2 エペソ1:4-6、Ⅱテサロニケ2:1314 / 3 ロマ9:17182122、マタイ11:2526、Ⅱテモテ2:20、ユダ4、Ⅰペテロ2:8)〔問答13参照〕。そして、この聖定を神はどのように実行されるかと言えば、<神は、その誤ることのない予知と、ご自身のみ旨の自由で不変な計画に従い、創造と摂理のわざにおいて、その聖定を実行される>とある(エペソ1:11)〔問答14参照〕。

さらに日本の正統主義的教派の典型とも言える日本キリスト改革派教会の神学者・岡田稔氏は次のように述べている(『改革派教理学教本』〔新教出版社 1969年〕から抜粋)。
「キリスト教の教理体系は聖定の教理を正しく理解し、位置づけるのでなければ構成されえぬと思う。その理由は第一に、
聖定こそ神と世界と人間との関係を明確にするあらゆる思考の出発点であるからである。聖定とは神と人との接触の原点である。(中略)神の聖定を特に永遠の聖定と呼ぶのは、神の時間の業である創造と摂理とを区別した場合、それが永遠の業であって、むしろ三位一体論に類する事柄だからである。しかも三位一体の業は永遠の業ではあるが、対象が神ご自身であるから内の業であるのに対して、聖定は外の業であるという点で全く別の業である。三位一体の業では世界と人間とは全く除外されているが、聖定では神は専ら世界と人間にかかわっておられる。そのかかわり方こそ絶対的な主権的なかかわり方である(中略)その理由の第二は、聖定こそ世界にあるあらゆる差別と多様性の唯一の真の根元的統一であるからである。聖定を予定と同視する神学者があるが、わたしとしては、予定論は差別の原理の基礎であるのに対して、聖定論は統一の原理の本源であると見なければならぬと思う。(中略)神の永遠の聖定は、(中略)一言で定義すると、聖定は、永遠界、つまり神の内で、神以外のものでまだ現実に創造せられず摂理せられぬ事柄について、神がなさった、計画、思想、意志決定である。(中略)聖定は過去完了形の業である。がその結果は創造の業としては既に現実化された事柄であるが、摂理の業としてはなお現実化の途上にあるものである。(中略)聖定は予定、選び、摂理などと深い関係があり、ある意味では相覆う概念であり、場合によっては同意語として用いられることもあるが、論理的に区分をすれば、予定や選びは聖定の内容の特別な一部分であり、摂理は聖定の実現の過程を指すものである。(中略)主権性に関しては、マーレーも言うごとく、カルヴァンほどに神の主権を高く崇めた神学者はない。彼はすべて生起する一切の事柄は、神の永遠の聖定中に含まれているという主張を事あるごとに繰り返した。(中略)カルヴァンには聖定論こそ神の主権性の最も深いところでとらえられた表明なのである。(中略)罪との関係で、聖定の無条件性を考える時には結局は解明不可能な問題を含むことを率直に認むべきである。ただ、罪行為もまた聖定に従ってなされたということを認めると共に、その罪が聖定の結果生じたとは認むべきでない。少なくとも聖定は悪の有効因でなく許容因であり、神が罪行為を道徳的に罰することは、それが聖定されていたことと矛盾せず、またしたがって聖定に含まれていたことが罪人の責任を免れる理由にはならぬ、ということを明記しなければならぬ。(中略)『雀も父の聖旨なしには落ちない』と主イエスが言われた時、雀を捕らえたいという人間の意志が問題となっていたのかもしれない。しかし人間が意志しても、神の許可がなければ成就しない。この事実は摂理の面では極めて一般的な現象であるが、それを聖定の場に戻して考察すると条件的聖定というアルミニアン説が、論理的には正しいと思われるかもしれぬ。しかし条件的ということは、既に神の主権の否定または限定であって、聖定そのものの主旨に反している。だから摂理論では神と人とが対話する二つの主体であっても、聖定論では常に神の独演であるということを忘れてはならない。これを許容聖定と呼ぶわけである。罪の責任は人間の側に全面的にあるのだが、罪が生じる(あるいは人が罪を犯す)場合にも、人の意志が神の聖定を拒み、それを排除して罪の有効原因となるわけではない。善悪にかかわらず、第一原因また有効原因は神の意志以外ではない。(中略)神が罪を作られたとは言わぬ。罪は神によって許容的に聖定されたと言う。神の聖定は罪の有効原因というよりも罪が生起することの有効原因だと言う方がよい。(中略)神はアダムが犯罪して堕落することを永遠より許容的に聖定しておられた。ところがアダムは歴史の中で、神に背いて犯罪した。それはアダムが摂理の中で行った自由な行為であった。」

アリストテレスの四原因(質料因、形相因、作用因、目的因)の猿真似か何かは知らぬが、神学で「原因」に「有効因」だの「許容因」だのを区別するその思弁についてはまさに詭弁と呆れるが(ホワイトヘッドのプロセス神学についても然り・・・<この自然的極と精神的極の両極的な統合(=合生<concrescence>)という実在理解において、ホワイトヘッドが作用因の配する近代的な機械論的世界観と、目的因を認める目的論的世界観との統合を目指していることが明らかになる。「健全な形而上学の一つの課題は、目的因作用因とをそれら相互の適切な関係において明らかにすることなのである」(Whitehead[1929], p.101)。>

http://tillich.web.fc2.com/sub5r4.pdf#search=)、このような正統主義キリスト教の屁理屈な護教の論理も、換骨奪胎如何では使えることもある。その代表例が「聖定」であり、その頌栄の主旨は認め得る。これが無いと、コーヘレトが羅列した「時」を、創造主に定められた、永遠の相の下にあるものとして受け入れることなど出来ない。それは観念にとどまるだろう。創造主の聖なる定めとして信じればこそ、その「時」が自分にとって都合が良かろうが悪かろうが受け入れ得るのだ。そしてそのような「時」の受容なくして過去のトラウマから自由になって前向きに生きてゆくことは出来ないだろう。私もその「時」を見きわめて死中に活を求めるべく打って出るしかない。もはやパンを水の上に投げる(11:1)余裕があるかどうか。

3:9 労苦することによって、その行為者に何の益があろ

    う。

   10   私は、神が人の子らに与えて、苦労させる営みを見

    た。

   11 神はすべてをその時にかなって美しく造り、加えて、

    それらの中に永遠〔性〕を付与した。だが人は、神が

    造った業の初めから終りまでを見いだすことは〔で

    き〕ない。

   12   私は知った、その生涯の間、楽しんで〔自ら〕 幸福を

    造り出すこと、これ以外に人の幸せはない、と。

   13   また、すべての人が食べて飲み、そのあらゆる労苦に

    幸せを見てとること、これこそが神からの贈り物であ

    る、と。

   14 私は知った、神のなすことはすべて永遠の〔の世界〕

    に属するのだ、と。それにつけ加えるものもないし、

    そこから取り除くものもない。神が〔そう〕したの

    は、彼らが神を畏れるようになるためである。

   15 起こったことはすでに〔それ以前に〕起こったこと、

    いずれ起こることもすでに起こったことである。神は

    過ぎ去ったことをまた追い求める。

 

西村氏の注解では、9節が「働くもの(にとって)は労するものに何の益を得るか。」、10節が「私は見た、神が人の心に与えて耐えさせる(関わらせる)労苦を。」(「労苦」は「人間への神の賜物であり、人間を人間たらしめるところのものである」と記されている。)、11節が<すべてを彼はその時に(かなって)美しく(ふさわしく)作った。また「(時空の)持続」を彼らの心の中に与えた。人は神が始めから終わりまでなす(なされる)ことを見出すことのないままに。>(「なす、作る」については、<神が「正しく」作られたが、あまりに「思考する(raisonner)」(729)人間にとって理解できない神の業が問題である(「創造する」の語は121に一語だけ、しかも意味は一様でない)。>、「すべてを」については、<「すべて作ったものは美しい」ではない。(略)冠詞は、神が調和良く作られたような、創造の総体としての「すべて」を指さない>、「その時において」については、<「時間の中で」ではなくて、「その時に」。運命、予定の観念なしに。>、「美しく、ふさわしく」については、<「ふさわしい。適切な機会」、良い時に同じ。そのもの自体が良いのではない、それが適切な時に来る時にのみ(略)「彼はその時に適切に生じさせる(Fox)、「神はすべてのこと(万物)をその時にふさわしく作った」(中沢訳参照)などの訳が可能である。>、「彼らの心に与えた」については、<「賜物として、存在の中心に与えたということであり、心との関係に置いた、ということである。しかし同時にこの語は、それが(※)「隠された(1214)ものとして与えられたことを暗示する。「人間をオーラムの中に置いた」、目に見える、感覚に感じられる「時空の中に置いた」は明確に認識され得るのに対し、「心の中にオーラムを置いた」は「隠されてある」ことを暗示する。ユダヤ教の注解書(BC)は「彼は同様に我々の精神を暗闇の中に置いた」と訳している。(※)「彼らの心に」 感情の座でなく、存在の中心に。113参照。>と記されている。)、12節が<私は知っている。人間にとって彼の生涯の間楽しんで幸いに暮らす以外に「良い(幸いな)こと」はない。>、13節が「しかしまた(知っている)、すべての人が食べ飲み そして彼のすべての苦労に楽しみを得るのは、それは神の賜物である。」、14節が「私は知っている。神のなされるすべてのことは、永遠に続く。それに付け加えることも、しかしまたそれから除くこともできない。神がなさるのだ、それで人は神の前に恐れる。」(「なされる」は未完了形と記されている。)、15節は「存在するものはすでにあった、存在するだろうものは(も)すでに(前に)存在する(あった)。神は追われたものを追究する(過去を呼び戻す)。」と訳されている。10節の月本訳「神が人の子らに与えて、苦労させる営み」は、「辛い」を挿入すれば1:13と同じになり、それは「解説」で「自己の知恵の探究」の呼称と言われ、「労苦」は「肉体労働ではなくあくまでも知的労働である」と言われている。また、「聖書の叙述では労働は祝福としてスタートしている。さらに、聖書によると肉体労働は知的または霊的な思索と同等の価値を持っている(略)。ギリシア・ローマの伝統とは異なり、聖書は肉体労働と知的労働を分けておらず、からだ抜きの知性のみの生活を想像だにしていない。」(「IP-J-63p72)といわれている。それはともかく、「肉体労働」者の読み手がその「労苦」に自身の「肉体労働」を読み込んで読んでも何ら支障はない。その「労苦」に「益」を認めないコーヘレトが、食べてゆくための労苦に幸せを見てとることを「神からの贈り物」だと言い表わしている。実はコーヘレトの言いたいことはそっちの方で、無益だの空(しい)だのというのは実は方便のように感じられる。否、それは確かに現実認識ではある、が、それが決してニヒリズムにつながらず信仰につながっているのは、その無益だの空だのといった否定性が、実は生得的・根源的な神関係に於いて有効活用されるからである。「無」なしに「有」を実感することはできない。「苦」を経験せずして「楽」を味わうことはできない。神関係を与えられていることの恵み、その永遠のもとでの幸いを体験知として知るには、現実世界の空しさと生きてゆくための苦労を知らなければならない。そして人としての限界を知り、「無知の知」を覚り、「神を畏れる」者とならなければならない(注では「神への畏れ」が他に5:67:188:1213とある)。そこに、創造主信仰にもとづく「知足」、「知止」の知恵を見る。15節の「・・・起こったことである」は注で、<世界の事象は永遠に反復する(一910参照)。一定の「時」が定められた人生上の出来事も、最終的には、永遠の反復の一部にすぎない>とあり、ニーチェの「永劫回帰」を彷彿とさせる。後半の「過ぎ去ったことを」の原意は「追いかけられたものを」とのこと。

ところで、老子の44章「足るを知れば辱(はずかし)められず、止(とど)まるを知れば殆(あや)うからず」については次のような解説がなされている(~楠山春樹著『老子入門』〔講談社学術文庫〕p143~)※以下( )内の読み仮名表記は自記。

<世間には、飽くことを知らぬ欲望に溺れて身を誤り、あげくには生き恥をさらして野垂れ死にをする人が少なくない。この句は、欲望をほどほどにして、分相応に振舞えば、決してこのような恥辱を被ることはない、ということである。二句を合わせて「止足の戒」と称され、老子の処世訓として広く知られている。>

つまり、ここで言われている「辱」とは「生き恥をさらす」という恥辱の辱である。その辱を被らないための知恵は「止足」なのだ(「この「止足」の二字はその後、熟語として定着し、さまざまな場面で使用されている。たとえば、中国歴代の「正史」には、儒者の伝記を集めた「儒林伝」、老子の伝記を集めた「孝義伝」などがあるが、そのなかに時おり「止足伝」という類目が見える。(中略)また、「止足の戒」「止足の分」という句の頻出することも注意される。」とある)。

この点ではコーヘレトのモチベーションとは通じない。彼は世間を見てはいない。「エロヒーム」の不特定なる「神」しかしあくまでも「造り主」との関係があるから、人間同士の視線よりも「神を畏れる」という神への視線の方に重きが置かれるからだ。しかしその視線は「神」を捉えきれない。その働きの永遠性を認めながらも見えるのは不条理の現実であり、感じられるのはその背後に「隠れたる神」の存在である。その「神からの贈り物」としての「知足」である。コーヘレトにおける「幸い」とはこの「知足」の知恵によって神関係が維持されていることであろう。6:12では「空しく限りある生涯において、何が人にとって幸せか、誰が知ろう。彼はその生涯を影のように過ごす。彼の〔死〕後、日の下で何が起こるか、誰が人に告げ知らせえよう。」と言われている。つまりこのニヒルな文言も、人間の「幸福(観)」を相対化して本来の造り主の恵み、生かされている幸いに心を向けさせるための方便であるとみることができる。

ところで老子44章の「足るを知れば・・・」には「以て長久なるべし」が付く。これについては次のように解説されている(~楠山氏前掲書p148)。

<それならば「失わない」ようにするにはどうすればよいのか。それは、欲望をほどほどに抑えて現状に満足することであり、身の程をわきまえて、適宜のところにとどまることである。この道理を心得ていれば、人は何ものをも失うことがない。かくてわが身は安泰であり、長久を得る、というのである。>

33章の「足るを知る者は富む」については次のとおり(同、p149

「足るを知る者」は、たとえ貧窮にあっても、心は豊かである。その「心豊かなる者」こそが、まことの「富める者」だ、ということである。46書には「禍(わざわい)は足るを知らざるより大なるは莫く」とか「足るを知るの足るは、常に足る」という言葉がある。これについては、「足るを知らぬこと」は「得んと欲すること」と共に「人にとって最大の災いである」と言われている。そして、<「足るを知る」という足り方(満足のあり方)、これこそが恒久不変の「足る」(満足)である」とのこと。これは世にいう「満足」ではなくて(つまりサティスファクションではなく)、<「足るを知る」という反省のうえに立って得られる「満足」こそが、永遠の満足だという>のである。そして「要するに物質的な豊かさではなくて、心の豊かさこそが、永久に変わらぬ豊かさである、ということ」だとまとめられている。消費社会でいわれる「顧客満足」(C・S)の「満足」ではないのだ。一方、コーヘレト書の内容とは全くといいほど関係なく参考にならず意味はかなり違うが似たような言葉があるのでふれておく。「大学」の「経一章」には「大学の道は・・・・至善(しぜん)に止(とど)まるに在り」とか、「止(とど)まるを知りて后(のち)に定まるあり。定まりて后に能(よ)く静かなり。静かにして后に能く安し。」云々という言葉がある。 至善に止まる」とは、明徳を明らかにすること、民を新たにすること、この二つを実践するうえで、最高の状態に到達して、そこから一歩もあともどりしないこと」だと言われ、<「止まるを知りて后に定まるあり」とは、「そういう至善の所在を把握できれば、おのずから志の向かう方向が定まってくるというのだ。志が定まれば、もはや心に動揺はない。「静とは、心の妄動せざるを謂う」である。心が妄動しなくなれば、どんな状態におかれても安定している。安定すれば余裕が生まれ、どんな事態に追いこまれても、じっくりと思慮をはたらかせてから対処することができる。その結果、おのずから至善の所に止まることができるのだという。>(守屋洋著『中国古典百言百話14 大学・中庸』〔PHP文庫〕p25)と言われている。もう少し学術性があり信頼できる島田虔次著『中国古典選6 大学・中庸 上』〔朝日文庫〕によると、<「至善に止まる」の「止まる」とは、ある場所へゆきつくとそこからもう他所へゆかない、という意味である。「至善」というのは、事理当然の極、すなわちものごとの理 ―― 当(まさ)に然るべき規範
―― の極致
をいう。>(p54)と言われ、さらに<明明徳、新民の各各において「至善に止まる」ということは、更に要約していえば ―― 天理が完全に実現せられて、人欲という私的なものが毛筋ほども存しないような、そのような人格であることである>(p55)と言われている。これは「聖人の境地」(p56)だというから自分のような一般庶民の生活とはあまり関係ないようだ。なおこの「至善に止まる」は朱子の説と陽明の説とでは異なり、前者は「単に客観的にのみ説く」のであり「至善というよりは極至とでも言いかえた方が理解しやすい」という。これに対して後者は<至善とは文字どおり一毫も悪の無いこと、「心の本体(良知)を指すのであり、至善に止まるとは『心の本体に復(ふく)する』こと>(p56)だという。また、< 止まるを知る、というのは 止まるべきところを知ること、「物格り知至って」つまりまず格物致知の手続きをへたのち、天下のことにおいていちいちその至善の所在を知ること。>とあり、「対象についての的確な知識が得られるならば、主体の側における志向は一定のものとなる。すなわち、人欲を克服して天理を実現するという方向に方向づけられる。」とあり、朱注の「静とは、心の妄動せざるを謂う」については、「理が一定のものとして把握され、われわれの存在そのものの方向づけが決定せられるならば、心を動かす何ものもないので、静かとなる。」と言われ、「安とは、処(お)る所にして安きを謂う」については、「心が静かになれば、どのような境地においても安らかである。安定的である。」と言われ、「安は静のいっそう進んだ段階」とされている。また、朱注の「得とは、其の止まる所を得るを謂う」については、<その止まるべき所の地点を把握してそこに止まるのである。しかるに真に「止まる所を知れ」ば、そこから止まる所を「能く得る」まではただ一歩の距離にすぎないのであって、知止→能得の中間における定、静、安、慮、の四項は、決して時間的にこの四者を一つ一つ経過していくという意味ではない。単に心理的論理的にそれぞれ前者が後者の根拠をなしているところのこのような層序が見られるというにすぎず、知止→能得(これは時間的順序と考えもよい)が単純な、無構造でうすっぺらな、プロセスでないことを示すものにすぎない。>(p60)とある。また、「知止→能得は要するに、始めの知止と終りの能得とが因果関係をなしているところのただ一つの事柄、に他ならないので、それで終始と言った。学問において段階・順序を重んずるのも、朱子学の顕著な特徴である。」(p61)とある。

コーヘレト書との関係で参考になるとしたら、「至善に止まる」の方ではなく、「止まるを知りて后に定まるあり」の方だろう。コーヘレト書にはヨブ記にみられるような神義論、すなわち宗教的思弁が無いのはまさにこの「止まるを知りて」神関係が活きており、精神が定まっているからだろう。

旧約聖書、特に知恵文学に於いて「至善」に対応するのは「律法」ないしは「経綸」か・・・。一般的には「神」自身が「最高善」とか「至高至善」とも言われる。いずれにせよ、神関係に於いては人間の分をわきまえ、神学的思弁もほどほどにして「止まる」ところを知ることが必要だ。そうでないとエックハルトをも突破せよという西谷啓治のように、乃至はそのような京大神秘哲学の悪影響を受けた小田垣雅也氏などのキリスト教神学者のように歯止めなく思弁を掘り下げる。もっともそれは彼がそういう職業的立場とタラントを与えられているからであって、一般化して論じることは出来ない。ましてや自分のような一介の労働者に限定されている者との比較の及ぶところではない。それにしても「神/人」どころか「自/他」の区別さえ曖昧な悪しき(宗教)哲学に落ち込むことになる。いくら人間がエックハルトの如く瞑想の中で何ごとかを突破していったところで、そんなんで「神ご自身」に至れると思うのが人間の分を弁えない傲慢の罪である。そういう人間は、ついには「神」を見失い精神の安定を失って「神関係」から墜落することにもなりかねない。そうなったら本当の絶望であり虚無・・・魂の死である。人間は有限・相対存在の分を弁え、コーヘレトのように「神」に制限された知欲の許容範囲で知り、隠れたるところをあえて知ろうとはせず、つかず離れずの関係でいればそれでよいのだ。それが健康的な信仰のありようである。エックハルトのような神秘主義は健全な信仰ではない!生活者の現実的信仰は「対象」を有つ信仰であり宗教である。「対象」なき「信」など観念論者の「信」ではあり得ても実践者にとっての「信」ではなく、そういうのは救済宗教ではない!己を神化するような愚かな神秘思想者になど近づかぬよう無用な知欲を止めて「足る」とする、信仰に於ける「止知の戒」を実践しなければならない。 

 

五木氏は『運命の足音』で、人間は他の動物にみられるように自分の死を予感する能力、もっと言えば「天寿」を知る能力を持っていたが、「文明化の過程で次第に弱められてきたのではないだろうか。」と語る。そして更に、次のように述べている。

<こんなことを言ったところで、なんの科学的な根拠もないことだ。しかし、科学的、合理的な証明のないものは、信用できないという態度こそ、むしろばかげているように私には思われる。そして一応の科学的、医学的説明があれば、なんでも信じてしまうことこそ、迷信と呼ぶにふさわしいと思う。宗教は文明の根幹をなす大きな世界である。しかし、宗教の宗教たるゆえんは、証明されないものを信ずるという一点にある。私は自分の証明されざる直感のなかで、人間はおのれの「天寿」を知り、死を予感する能力をもっていると感じるのだ。>(p8283

そう、それは「私は・・・」という個人の信仰のレベルでなら全く同感できる言葉である。ところが宗教は個人レベルを超えて共同体レベルへと発展する。そんなことはわかりきっているよと五木氏は言われるだろう。五木氏自身、『人生の目的』の中で「宗教は人間の共同体の家庭であり、故郷なのである。」(p69)と述べておられるからだ。そう、宗教は個人の信仰だけでは成り立たない。必ず共同体となり、拡大するに伴い制度化された組織となる。だからこそ、五木氏の言われる「証明されないものを信ずるという一点」が問題となってくる。宗教組織が拡大すべく布教活動を展開する上で神学とか教学といったものが必要となり、護教的論理が展開され、「科学的証明」ではないにせよ「宗教的証明」とでも言える「弁証」がなされることになる。知識人に対しては全く客観性の無いことでは通用しないからだ。キリスト教の教父にも弁証家と呼ばれる人々がいる。西方ではその代表的人物がテルトゥリアヌスであるが、『人生の目的』では彼の言葉と云われる「不合理ゆえに吾れ信ず」を見出しとして語られている。それは1999年のローマ・カトリック教会とルーテル教会の世界連盟との「義認」の教理に関する共同宣言の予告を報じた朝日新聞の記事にふれてのコメントである(調印は10月末で、新聞記事は予告なので2ヶ月前の8月下旬)。

<この共同宣言のあらわす信仰は、いわば絶対他力の立場と大きく重なりあう。それは無条件の神への帰依なのだ。キリスト教の偉大さの本質は、そこにこそあると私は思う。キリスト教の神は、人智を超えた存在だ。その神意は、薄っぺらな人間の知性では計りしれない。とうてい了解不可能な超越的な存在であるからこそ、理屈による服従でなく、絶対の信仰が不可欠なのだ。不可解だからこそ信ずるのであって、証明と保証によって信頼するのでは科学やビジネスと同じ次元になってしまう。「他力の信は、義なきを義とす」という親鸞の言葉は、「不合理ゆえに吾れ信ず」という言葉に重なる。理解によって信ずるのは、俗世の約束ごとである。神はどのような残酷なこともするし、納得のいかないこともする。しかし、それは人の世の判断や思考において残酷と見え、常識で納得がいかないだけなのだ。だからこそ、無条件で信ずることが求められるのではないか。>(p144145

この箇所での五木氏の宗教に対する見方は、失礼だが浅いと思う。知識人によくある考え過ぎではなく、むしろ考えなさ過ぎだと思う。宗教は組織化することによって「教え」が思弁的に体系化される。神仏の存在それ自体については客観的証明などなくても、それこそ「在ると言えないかわり無いとも言えない」などと言って相対主義的に済ませることもできるだろう。しかし人が多く集まれば同じ神仏に対しての信じ方、観方も多様化する。「教え」について実際の現実に照らしての様々な疑問も生じてくる。そこで神学者は対内的には集団内のそうした疑問に答え、対外的には他宗教や無神論者からの批判や攻撃から集団を護るべく、科学的証明ではないが証明に近いような説得力を与えるために弁明を行なうことになる。そのようにして教典だけではなく、その解釈としての教理が作られ、組織の統一のために必要最低限の約束事としての信条なり教義が立てられる。その約束事を受け入れなければ「異端」とされる。そのようなあり方に「絶対他力」の精神などはみられない。むしろ教父たちの詭弁を用いての小賢しい「自力のはからい」であろう。キリスト教の場合はテルトゥリアヌスに起源を持つと云われる「三位一体」が正統教義の代表である。そしてこのような教義を「不合理ゆえに吾信ず」とする信仰が正しい信仰とされる(『人間の運命』〔東京書籍〕では「非合理ゆえにわれ信ず」という表現で引用され、「信じるために論理的な証明はいらないし、役に立たない。」〔p141〕とある。ところが宗教と言うのはただ「信じる」だけの世界ではなく、自分〔たち〕が信じることを他人にも伝えようとする企てである。そこにある種の「証明」、「弁証」が必要となる。そうでなければキリスト教の歴史に教父だの護教論者だのは不要だったはずだ)。「三位一体」というのは教典(キリスト教では正典としての聖書)に示された「神(観)」の解釈の一つにすぎず、他にも適切と思われる解釈もある。しかし信仰対象である「神(観)」についての解釈は、他の事柄より以上に統一されなければ宗教組織として安定しないので、「神(観)」について教会組織が選択した解釈以外の解釈は、古代教会時代の政治的力関係の中での信条制定によって「異端」として排除された。そのようにして形成された正統的キリスト教は、五木氏の言う「他力の信」とはおよそ懸け離れた帝国主義的布教を展開する歴史を経ている。従って、五木氏の言う「キリスト教の偉大さの本質」は、正統的キリスト教という組織宗教では実現されているとは言えない。「絶対他力」は仏教であれキリスト教であれ、浄土真宗であれプロテスタントであれ、あくまでも個々人の信徒に於いて実現されるのだと思う。しかしその信徒は組織に属している。だから、組織の教義を否定するのではなく、要は絶対化しない受け入れ方が大切だと思う。キリスト教の場合もその教義が「三位一体」神論であれ「神人両性一人格」キリスト論であれ、それはそれとして聖書の主流的解釈として受け入れてよいから、それを絶対化せず、他の神論やキリスト論も傍流的解釈として成り立ち得るという、言わば、名目と実質の二重構造を認める必要がある。「信」の統一性に偏ると組織は強化されるが成員の個々人は弱体化する。信徒個々人は組織宗教の中に在りながらも「信」の多様性を重視し、その組織を相対化する視座がなければ、五木氏の言う「本質」は歴史の中に埋もれ、見失われてしまうと思う。要するに五木氏が「無条件で信ずることが求められる」というのは最も基本的な信仰のあり方でしか通用しないのであり、むしろこれが組織宗教の中で教化のロジックとして利用されると、洗脳とまではいかずとも「盲信」的な「信」となり、けっして「絶対他力の信」とはならない。実際にキリスト教では、正統教義を個々の信徒に対して、「人智を超えた」神秘だの秘義だのと言って理性批判を停止させ、半強制的に認めさせてきているのである。これは「相対の絶対化」であり、「他力の信」が個人レベルではなく組織レベルで使われると、謙虚なあり方どころか逆に傲慢なことになってしまう。特にキリスト教は浄土真宗よりも複雑な宗教であり、「他力信仰」の宗教と言って済むようなしろものではない。だからこそ逆に信徒個人の中には、親鸞の単純明快な(・・・とまでは言えないが、少なくともイエスやパウロの教えよりは現実的でわかりやすく、日本人として共感するところが多い)宗教に惹かれるのだと思う。私もその一人だ。「親鸞教的キリスト教」などといったものを夢想したことがある。今でもそれはないわけではない。しかしそれ以上に「コーヘレト的キリスト教」というものを追求したい。

梅原猛氏は『歎異抄 現代語訳及びこころ』〔講談社学術文庫〕の「解説」で、源信に始まる「日本浄土教」なかんずく親鸞が法然から受け継いだ「専修念仏の信仰」における「阿弥陀仏への一仏崇拝」を「一神教の主張」と述べ、「この一神教の崇拝によって初めて、日本において真の超越者への信仰の道が開かれたと私は思う。」と述べ、「その阿弥陀仏という絶対神は、源信から法然、法然から親鸞へと移るにつれて、その絶対度を高めていき、他の一切の仏や神を排斥するに至ったのである。」と言う。然るに、「阿弥陀仏」と聖書が示す「ヤハウェ」との根本的な違いは、前者はしょせん人間に由来するということ、これに対して後者は創造主であるということだ。阿弥陀仏の神話(というか説話・物語)では、阿弥陀仏の前身は法蔵菩薩(菩薩は仏になる前段階の求道者、修行者)であり、その前は「法蔵比丘」(比丘は出家して僧になった者)で、その前は一国の王である。だから「阿弥陀仏」を「イエス・キリスト」に比すことならともかく、「絶対神」と同一視することは根本的に誤りである。無論、「菩薩」や「仏」を実体的に解さず、悟りに至る意識階梯の擬人的表現とみることも出来るが、それならなおさら人格的存在である聖書啓示の神・「ヤハウェ」の比較対象とはならない。「絶対神」と言える存在は、人間の存在根拠であって然りである。仏が仮に(「権」)神の姿をとって「現」れたという「本地垂迹説」(「仏」が主で「神」が従。その逆が「神本仏迹説」)などは歴史的現実から離れた思弁であり、バカバカしくて話にもならない。

現実に存在と働きを感得される「活ける神」は、国木田独歩の表現で言えば「生命其のものの源は神に在り」だ。そうであってこそ「霊の父」(ヘブル12:9)と言える。この現世にある万物はすべて被造物であり、創造主ヤハウェは「唯一絶対」だから「阿弥陀仏」は創造主ではなく被造物にすぎない。被造物は被造物の存在根拠にはならない。人間はどこまでいっても相対性を免れ得ない。そして梅原氏は、阿弥陀仏を「超越者」と言いながら「もっと内的な、自己自身を問題とした仏教が可能なことを浄土教は教えた。自己の内面に絶対的な神が宿っている。」と述べている。キリスト教でも三位一体論では、神は超越者であると同時に内在者でもあり、自由自在に遍在する者とされる。しかし私は「神」と「イエス」、「神」と「(その)聖霊」、「イエス」と「(神の)聖霊」との位格的区別の面は認めるが同一の面は認めないので(本質は「神」と「聖霊」とは同じだが、「神」と「イエス」、「イエス」と「聖霊」とは異なる)、人間に「内在」する神性・神格はあくまでも「聖霊」であり、「神」御自身はつねに「超越」しておられると信じる。そして「イエス」自身は「超越者」でも「内在者」でもなく、彼にこそ「聖霊」が豊かに「内在」し、天上に超越せし「神」の意志を地上に実現しようとしたものとみる。

いずれにせよ日常の生活に直結する神関係であり信仰でなければならない。形而上学的思弁とか神話には関心ない。極楽浄土であれ天国であれ、来世の教義に重きを置く宗教ではリアリティーを欠く。死後の救いに想像を逞しくするような宗教ではダメだ。死ぬまでの生の支えとなる宗教であってこそ現実的である。その点では親鸞教よりコーヘレト書の方がいい。

五木氏の『人生の目的』と『人間の運命』についてだ。久々にあらためて読んでいるが、たしかに前記のような批判点がある一方で、さすがに奥深い思索で共感する箇所もある。それは『人生の目的』での「運命」と「宿命」との区別だ。

「中村さんは、<宿命>とちがって、<運命>には偶然性が働く余地がある、といった意味のことを書かれている。私はそのあたりはまだよくわからない。<宿命>と<運命>のちがいも、はっきりとはつかめていない。あるとき、こう考えてみたことがある。<運命>はすべてのものが背負う共通の大きなものだ。人間として生まれたという運命。(中略)人類の運命とか、一国の運命とか、とにもかくにも私たち個人の枠を超えた共通の大きな流れ、それを運命とみるのはどうだろうか。反対に<宿命>とは、個人のものである。全宇宙にただひとりの自分、『唯我独尊』の『唯我』にかかわってくるのが<宿命>と考えれば、<運命>と<宿命>のちがいが、かなりはっきり見えてくるだろう。『歎異抄』のなかに親鸞の言葉として、<業縁>という表現が出てくる。私はこの言葉が、なぜか重苦しい感じがして嫌だった。私流に考えてみると、この<業縁>という言葉は、<宿業>の<業>と、<因縁>の<縁>との組合わせのように思われる。<宿業>も、<因縁>も、私の苦手な言葉である。見ると本能的に何か暗いものを感じてしまうのだ。しかしいまでは、この親鸞の<業縁>という表現は、じつに深い意味をもったすばらしい言葉だと思うようになってきた。そして自分勝手に、これを<業と縁>と読み、<宿命と運命>と読みかえて理解している。」(p5253)※「中村さん」は中村元氏。ここではその著書『自己の探究』の中の《運命と宿命》という章を踏まえて書かれている。「運命」は普遍的なもの、「宿命」は個別的なもの、であるとすれば、「神(との)関係」も生得的・宿命的なものだと思う。創造主なる「神」は天地を創造し、「よし(トーブ)」とされ「祝福」(バーラフ)されたが、その「よし」とか「祝福」と訳されている言葉は人間にとって都合の良い意味での「よし」とか「祝福」ではなく、ただ神の御意に沿うという意味であり、人間にとっての世界の実相は仏教が示す如く「苦」であり、「不条理」であり、人間社会の現実は「アンフェア」だと捉えることは、宗教的「神信仰」とは矛盾するのかも知れないが(・・・だから神義論なども生じる)、「神関係」とは矛盾するも何もなく、ただ同じ現実なのだ。「神信仰」の人(「神信仰者」と呼ぶ)は「神関係」を必要条件とするが、「神関係」の人(「神関係者」と呼ぶ)は必ずしも「信仰」を持つとは限らない。「神関係者」にも有信的「神関係者」と無信的「神関係者」がいる。所謂、棄教したといわれるような人に後者に含まれる人が見受けられる。「神信仰者」には二つのタイプがある。現実世界が不条理であっても人知では測り知れない神秘があるものとして「神」を信仰するという実存主義的タイプと、その不条理な現実が「神」の全智全能や善性と矛盾しないことを説明すべく神学的思弁を弄し、その解決を前提に信仰を維持する普遍主義的タイプ。これに対して「神関係者」は実存主義的「神信仰者」に近いが、有信,無信にかかわらず、「神」の存在と不条理の現実とに矛盾を感じないという点で両者と異なる。創造主なる「神」の存在が、不条理なる現実世界と矛盾すると考えること自体、人間の都合に合わせて「神」(の「全智全能」とか「愛」とか「善」etc.)を想像しているに過ぎない。今迄の私は普遍主義的「神信仰者」から実存主義的「神信仰者」に変わり、現在は更に、有信的「神関係者」に近いと思っている。コーヘレト書を読むと、コーヘレトという人物は「神信仰者」ではなく「神関係者」であると思う。彼は実存主義的「神信仰者」をも超えて、現実の不条理性を徹底して認識しているからだ。「神関係者」は「神」の存在と「現実」の感覚とが矛盾しようとしまいと、その「関係」を断ち切ることの出来ない「宿命」・「限定」を生きるのみなのだ。『人間の運命』(東京書籍)では、「宿業」について次のように書かれている。

<親鸞はこの「宿業」という言葉を、ほかではほとんど使っていないという。ひょっとすると、唯円独自の受けとりかたを、唯円が自分の言葉で表現しているのかもしれない。しかし、私はあえて親鸞の言葉として「宿業」を考えたいと思うのだ。たとえ表現が異なっていたとしても、親鸞の言わんとするところは、切実にこちらに伝わってくるからである。かりに親鸞みずからが「宿業」という表現をしなかったとしても、唯円の受けとりかたに間違いはないと私は思う。『歎異抄』第十三条のなかから、そこの部分を拾ってみる。「(前略)よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり」ここまでの文章は、作者である唯円の考えであるとみていいだろう。そして、このように続く。「故聖人〔親鸞のこと〕の仰せには、卯毛羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし、と候ひき」つまり、どんな小さな罪であっても、それは、みずからのつくる罪であり、すべてはその人の過去の行為の生む結果である、と親鸞聖人はおっしゃいました、というのである。このあとに、はじめに紹介した、「人を千人殺してみよ」という問答へと続く。この「宿業」を、「前世の行為」と訳してある現代語訳もある。しかし、「宿業」の「宿」は、たしかに過去をしめす表現だが、「前世」と言ってしまえば、首をかしげたくなる気持ちがある。(中略)「生まれ変り」的前世というものを、私は信じない。いっそ、きっぱり「過去」と受けとってしまえば納得がいく。つまり「宿業」とは、その人にまつわるすべての過去の状況である。私の過去を左右するのは、私の両親であり、彼と彼女が私を生んだ。その二人の関係が、私に深くかかわっている。(中略)私自身の意志にかかわらないこと、意志によってどうにも変えられないこと、それが私の宿業である。少年とはいえ、植民地支配者の一員であったこともそうである。だからこそ私たちは、敗戦後に大きな代償を払わねばならなかった。それも、個人一人の行為を超えた私の宿業のせいではあるまいか。業=行為というのは、個人の行いだけではない。個人を超えたものの、逆らいがたい過去の業をせおわされているのだ。このような逆らいがたい、自分の意志を超えたものとは、戦争など外の状況にかぎらない。それは、自分の心のなかにもある。(中略)しかし、見方をかえると、自分にかかわるすべてのことはことごとくその人間のせおった「宿業」のせいであるというこの考え方は、ある意味で深い絶望につながるところがある。なにをしても、どうあがいても、いまの自分の状況は「宿業」のせいだ、と考えてしまえば、そこには暗いニヒリズムしか生まれてこないだろう。まして自分に意識がない「前世」など考えることができない。(中略)「前世の宿業」とは、私にかかわるすべての人びとの、私がこの世に生まれる以前の行為であり、関係であると考える。(中略)私の今日の行為が、明日につながる。そのことは、宿業を「どうにもならないもの」として受け入れることではなく、現在の選択が未来につながることを意味する。私たちは宿業をせおわされているだけではなく、未業を目の前にしている存在なのである。たとえば、私たちの先祖の業=行為が、いわれなき不当な差別の制度をつくった。しかしそれを宿業として意識的にせおうことは、明日の差別なき世界をめざすバネとなるはずだ。そう考えられれば、宿業という言葉に、暗い運命的なものだけを感じないで向き合えるのかもしれない。(中略)私自身は、親鸞、蓮如の信仰と思想、その行動に深く共感するところがある。しかし私が阿弥陀仏信仰に帰依するかどうかは、いま現在の私の選択にかかっている。それが自力ではなく、他力の廻向であったとしても、現在の行為と選択は、未来を変える可能性があるのだ。「宿業」とは、まさにそういうものではあるまいか。>(p4754)また別のところでは、「未来は現在の私の行為によって大きく影響される。つまり、過去、現在、未来は、これからの明日にかけては可変的なのだと考えたい。運命は、ときに私たちの手の中にあるのだ。」と述べている。このような運命とか宿命といった事柄、総じて「定め」と、自分の選択とか行為といった事柄、すなわち「自由意志」との先後関係は論じてもあまり意味はないと私は思う。「同時」とみなすのが現実的だ。言わば「他力」と「自力」、「啓示」と「要請」との「啐啄同時」だ。それ以上の思弁は停止し、大局的には「現在の行為と選択」も「定め」として受け入れる・・・「他力 > 自力」である。それでこそ絶対他力的救済宗教である。大切なことは実存主義の立場であり、他者からの批判を想定して体系的思弁に陥り、考え過ぎるようなことがないこと。

「自力のはからい」という言葉が浮かんでネットで検索すると、「自力」つながりで正像末和讃の「聖道門のひとはみな 自力の心をむねとして 他力の不思議に入りぬれば 義なきを義とすと信知せり」という言葉が目に止まり、今度は「信知」という言葉にひっかかり(実は、このような「ひっかかり」が知欲の「過ぎ」たることの現れでもあり宗哲思弁に退行するきっかけになるので気にせぬようにすべきなのだが、いちおうこれを踏まえたうえで)検索してみると、2年ほど前に自分がある寺のサイトに送信した質問と、それに対する答えとが出てきた。下に一部を省略して写す。

法話第12話に関する質問の件 2011822日(月)
御多忙のところ恐縮です。私は○○と申します。御法話の「念仏に生きる」を拝読しました。その中で、〈私たちは、心の底に「宿業」という底知れぬ闇をかかえている。そのことを教えられ、それを信じて、聞法と、お念仏の日々を重ねていく。そうして、信じていたことを、本当に知る、本当に体験するときがくる。そのとき、私たちは救われていくのです。
親鸞聖人の御和讃に、「煩悩具足と信知して、本願力に乗ずれば、すなはち穢身すてはてて、法性常楽証せしむ」(高僧和讃:善導讃)とありますが、ここに「信知」と、わざわざ、「信」だけではなく「知」と示されているのは、そのことなのですね〉というお言葉がございました。そこで「信知」という言葉について更にお教えを乞うのですが、「信じていたことを、本当に知る、本当に体験するときがくる」ということは、親鸞聖人は将来の事柄として「信知」という言葉を使われたということですか?現在は信じていることを、知ってもいないし体験していないのですよね。〈「宿業」を阿弥陀様に取られ〉ると信じ、それが体験として実現する時に知が成り立ち、それまでの「信」が「信知」へ発展するということでしょうか? それとも親鸞聖人が言われた「信知」は現在の認識なのでしょうか? 以上、お時間が許されます折にはよろしくお願い申し上げます。

 ○○様へ
Re:
法話第12話に関する質問の件 2011825日(木)
メールを拝受いたしました。紫雲寺のホームページにお立ち寄りくださり、有り難うございます。お返事を差し上げますのが遅くなり、大変失礼いたしました。お尋ねを頂きましたので、思いますところを、簡略にお応え申し上げます。この善導讃の
、「煩悩具足と信知して、本願力に乗ずれば」という二句は、おおよそ、二種深信の「機の深信」と「法の深信」を表していると考えられております。問題の「信知」ですが、この箇所以外には、「義なきを義とすと信知せり」(『正像末和讃』)と出てくる程度でして、用例の多い言葉ではありません。解釈例としては、『一念多念証文』に、次のようにあります。「今信知弥陀本弘誓及称名号」(『往生礼賛』)といふは、如来のちかひを信知すと申すこころなり。「信」といふは金剛心なり。「知」といふはしるといふ、煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり。また「知」といふは観なり、こころにうかべおもふを観といふ、こころにうかべしるを「知」といふなり。和讃の文脈からすれば、「信知」というのは、頭で「知る」ことでなく、心で「知る」こと、深く頷く、納得するという意味かと思います。『往生礼賛』の「今信知…」という表現から推せば、「信」から「信知」への発展というより、「今」現在に感得されるというニュアンスですが、私は、文字に即して、「信」のあるところに生ずる「知」と解しています。ちなみに、妙好人の源左に、こんな言葉があります。「聞いとけよ、聞いとけよ、そのうちに聞いたことがほんまになるでな」。聞いてきたこと、聞法してきたことが、ほんまになる。「信知」というのは、こういうことではないかと思います。ご納得頂けるかどうか分かりませんが、これにてご返信申し上げます。有り難うございました。合掌

信楽峻麿氏の論文では、<親鸞においては、この如来を信知し自已を信知すると言うことは、帰するところ二にして一なる体験であったわけである。そしてまたそのような主体的な信如の体験は「信心の智慧」(正像末和讃)と明かされ「しんずるこころのいでくるはちえのおこるとしるべし」(正像末和讃左訓)とも語られる如くに、それはすでに基本的には仏道における正見の成立、智慧の開発と言う意味をもつものであったわけである。>とある。http://www.terakoya.com/ronbun/shigaragi/disp.cgi?250

「二種深信」については、「機の深信」とは「自らが地獄一定の存在であると、機(我を知る)の真実を信知することであり、自らの力が浄土往生についてなんの役にも立たぬと信知すること」、「法の深信」とは「本願はそのような機をまちがいなく救う法(自然の道理)であると、法の真実を信知することである」とあり、「出離(迷いから解脱)はひとえに阿弥陀仏の救済の本願力にあると信知する」とある。「機は愚かな私であり、深信は心の奥底から納得すること」、「法とは自然の道理=諸行無常・諸法無我」とある。とにかく、「浄土真宗の信心は二種深信を理解すること」だと言われている。「善導大師は、浄土真宗の信心は二種の信心であると説明されています」、親鸞聖人の『高僧和讃』で「二種深信」は、『煩悩具足と信知して本願力に乗ずればすなわち穢身(えしん)すてはてて法性常楽証せしむ』とうたわれているとのこと。「愚かな我の真実に気づいて、仏の本願力にお任せすれば、この私は迷いの心を離れて、仏の清浄な心に転じることができますという意味」とのこと。親鸞に「二種深信」という用語は無い。「機の深信」:自身を信ずるということ、「法の深信」:深く本願を信ずるということ。「この二種深信は互いに矛盾した事実(地獄一定、往生決定)の信知と理解されやすい。しかし、機の深信の意味するところは自らの力が浄土往生についてなんの役にも立たぬと信知することであり、法の深信の意味するところは、出離ひとえに阿弥陀仏の救済力にあると信知する。すなわち機の深信は捨機・法の深信は託法 機の深信は自らのはからいを捨てさるということである。法の深信は阿弥陀仏の救済にすべてを任せる。このように二種深信は、自らの力がなんの役にも立たないと知って、はからいを捨てさるということは阿弥陀仏の救済の力にまかせきるということであり、阿弥陀仏の救済の力にまかせきるということは自らの力がなんの役にも立たないと自力のすたるところであって、これは別なことではない。>(~サイト「浄土真宗 海門寺」※上記の質問送信先のお寺とは別。)とある。ちなみに「浄土真宗親鸞会」のサイトでは、「二種とは、機(自己)と法(本願)の二つをいい、深信とは、ツユチリほどの疑いもなくなったことをいいます。」、「機といいますのは、罪深い自己のことであり、法とは、阿弥陀仏の本願のことです。金輪際助かる縁のない自己に、ツユチリほどの疑心もなくなったことを機の深信といい、そんな者を必ず助けるという、弥陀の本願にツユチリほどの疑心もなくなったのを、法の深信といいます。これを機法二種深信といいます。分かりやすくいえば、己の罪深きことと、弥陀の恩徳の高きことを、ハッキリと知らされたことをいいます。」と書かれている。そして『歎異抄』の中で「二種深信」の表白にあたる二箇所として、「機の深信」は「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」、「法の深信」は「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ」を挙げ、「堕ちる機と助ける法の二つに、ツユチリほどの疑いもなくなったのを、二種深信というのです。この二つの深信は、いつでもどこでも変わらず念々に相続しますから、機法二種一具の深信といわれます。」と書かれている。しかし親鸞会の高森顕徹氏の著書は大沼法竜氏や伊藤康善氏の文章のパクリで引用元も明記しないといわれているので、そういう人物を会長とする組織自体が信用できない。http://nazeyame.shinrankai.biz/index_pkr.html

要するに信仰のあり方は、私は個人主義的世界の方が、集団主義的世界よりも馴染むのである。しかし自分は教会という共同体に重きを置くキリスト教環境の中に生まれ育ち、生得的対神関係で自己限定されている。そこにアポリアがあるが、自分にとっての宗教とはあくまでも個人的・実存的なものである。実存主義的信仰に於いては本人がリアリティーを感じる範囲内で思考を限らなければならない。その範囲の外の事柄はどうでもよいこと、無用なことである。それは否定ではなく相対視であり不可知という意味であり、神観的にも狭い「唯一」神教ではなき「拝一神教」になって然りである。自分自身にとっての「神」だけが「神」であり、それ以外の「神」の有無は否定も肯定もできない。関心なしということ。だから宗教多元論や宗教包括論のようなことは過ぎた考えであり思弁である。「唯一・多」神教(個々人のレベルでは各人にとってリアルな「神」がいて「多」神教的だが、同時にそれらの「神」は「唯一」であるというもの)も過ぎた考えであり思弁である。いわゆる「万有(内)在神論」も自分の実感領域の外の事柄であるから関心はあっても真偽判断の対象にはならない。人はそのような実存に徹する思考にはなかなか耐えられず、科学的思考の影響によるのか自分の考えを一般化しようとしたり、他人の考えを普遍・客観的レベルで受け取ろうとする。個人レベルで要請される思想は個人の精神状況に即応するものであるように、一般化して共感されやすい思想も、より多くの人々の平均的精神状況に即応するものである。個人レベルでは自分自身の救済が大前提であるように、普遍(一般)レベルでは全人の救済すなわち「万人救済」とか「共生共存」の思想が多くの人々の賛同を得やすい。逆に個性的なものは賛否両論に分かれ、悪くすると潰される。それでも排他的・普遍主義的立場は、他の思想的立場に論争を挑んでまで独断の誹りを恐れず自説を貫こうとする。宗教団体で言えば、創価学会も浄土真宗親鸞会もエホバの証人も、その点では似ている。特に創価学会などは、現在は少しは下火になったのかは知らないが、かつての解同の糾弾闘争にも該当するような折伏論争を展開し、これに勝つことが自説の真理性を証明することであるかのように思い込んでいるふしがある。しかし自分はそのような普遍主義者ではない。むしろ普遍・客観的真理には関心がない。無論、歴史的社会的現実の中で科学的意味では普遍性や客観性は無視できないが、何よりも実存的・主体的真理に関心を向け、聖書啓示による「神関係・神信仰」に集中する。無用な思弁を省くためには、十字架の自己限定を弁えていなければならない。そしてこのような実存主義的信仰も、結局のところ人間には普遍化・一般化とは言わないまでも他者の共感・賛意を求める社会的欲求があるので(マズローの5段階説では「承認の欲求」か)、何らかの形で表現せずにはおれない。いかに主体的真理とか言っても、その思想も他人の著作から学んで形成されたものである以上、全く個に徹底することなど(一部の神秘主義者でもない限り)出来ない。実存主義者はそれを学界で論文発表するかわりに文学作品を通して発表する。キルケゴール然り、ニーチェ然りである。彼らは普遍主義には与せずとも、やはり自分の思想を内面・主観にとどめておくことには耐えられなかったのである。思想はいかなるものでも、それ相応にある種の客観化を必要とする。だからその表現手段に違いがあるだけで、結局、思想は個人の内にはとどまらないのだ。他者と共有されてこそ意味があるのだ。そこに人間の関係存在性が顕れている。しかし教会という組織に属した状態での表現より、無所属の状態で表現する方が自由である。小田切信男氏の場合は、「キリストを信ずる信仰者の実存に迫る実存的神観はまた聖書の神観でもあります。」(『キリスト論・ドイツの旅』p270)とか、「聖書の神は実存的に語られ告白されても、客観的に思弁し、忖度し、規定できるものではないのであります。」(同、p271)と述べておられるが決して閉鎖的・孤立的意味の個人主義ではなく、長年教会生活を送り、教会現場での信徒伝道者としての立場を背景として展開された神学論争であった。あくまでもキリスト教が共同体的宗教だからこそ、自説を自分の内にとどめることはできず論争を通して世に問うという形に展開したのだろう。しかし、小田切氏が所属していた教会は、教会といっても無教会的・非制度的教会であり、しかも小田切氏は教会だけではなくYMCAという団体にも所属して責任を担っておられたのであり、論争のきっかけも札幌市YMCAの目的条文に「聖書にもとづいてイエス・キリストを神とし」云々の文言があったことによる。小田切氏は聖書が「イエス=神」を啓示していないという絶対的信念から問題提起したようだが、私見では聖書は解釈によっては「イエス=神」もあり得る。しかしそのように認めない解釈も当然あるわけで、要するにイエスを「神」とするかしないかは相対的事柄なのだ。問題提起に意義があるのは、YMCAであれ教会であれ、その解釈を絶対化して、これ以外の信仰表現を認めない場合である。しかし多数決によって採用されている以上、これを批判したところであまり意味はない。それよりも目的条文だの信仰箇条など非実務的なものは気にしないようにするか、どうしても気になって同意できない場合はその団体から出るなり、その団体の解釈を自分なりに再解釈する知恵を使うかしか道はないと思う。私見では小田切氏の動機は普遍主義的だとも言える。つまり聖書解釈の多様性とかキリスト論の相対性への顧慮があまり見受けられないからだ。

6:10 存在するものはすでに名づけられ、

    これが人間だ、とも知られている。

    人間が自分よりまさる方を訴えることはできない。

  11 〔人は〕多言を弄して、空しさを増す。

    人に、一体、何が残るというのか。

  12 たしかに、空しく限りある生涯において、何が人にと

    って幸せか、誰が知ろう。彼はその生涯を影のように

    過ごす。彼の〔死〕後、日の下で何が起こるか、誰が

    人に告げ知らせえよう。

西村氏の注解の訳では、10節が「存在しているものは、すでにその名が呼ばれている。それがアダムであることは知られている。彼は自分より強いものと争うことはできない。」、11節が「言葉(出来事)が多ければ空しさも増す。人にとって何の益があるか。」、12節が「一生の間、影のように過ごす彼の空しい、短い生涯、人にとって何が良い(幸い)か誰が知るか。日の下、彼の後に何が起こるか。誰が人に告げることができよう。」とある。10節については、<アダムの名と「アダマー(土)」の語呂合わせは、陶器師と陶器の関係、「人」が創造者と争うことはできない、という観察へ結びつく(イザ45911参照)。>とあり、「アダム」については、<創世記52(「彼[神]が彼らを創造したとき、彼[神]は彼らの名をアダムと呼んだ」)、27(「ヤハウェ、神は、土[アダマ]の塵で人[アダム]を造り・・・・」)、319(「・・・・お前がそこから取られた土[アダマ]に。塵にすぎないお前は塵に帰る」)参照。>とある。「存在しているもの」については、<フォックスは「存在するもの」よりも「起こっていること」と訳す(中略)コーヘレトは事物の単なる存在に言及しているのでない。人にとって何が良いか(12a)の判断に関係する知識は、未来の出来事の知識であって、未来の存在の知識ではない(Fox)。従って「生起して、そして存在しているもの」ということである。>とある。11節については、「言葉、出来事」は「ダーバール」。12節については、<神がなすことは起こる。人はそれを変えることができない。さらに人は何が起こるかを知ることはできない。従って結果の観察に基づく行動の規範を作ることはできない。それゆえ何が良いかを言うことはできない。それにもかかわらず、7章で「・・・が良い」と述べていくとき、それは予想に反する驚くべき事柄を示すことになる。(中略)6章の最後で、最後の問い。これまでの結論の出し方(22431222は「・・・より良いことはない」、また815517は「良いと見た」)と異なり、「〔※原語表記省略〕とは何か、誰が知ろう」、「彼の後に何が起こるか、誰が人に告げることができよう」という二つの問いで終わる。コーヘレトはここでは解答を与えず、問題を提出するに留まる。ゆえに11節の「益があるか」の問いは続く、と理解する。そして817で、知者さえ人生の意味を十分理解することはできないと否定に至る。しかし、87の〔※原語表記省略〕を用いた再度の応答に至る前に、7章は、612の「何が良いか」の「良い」の語を次章への繋ぎとして介入させ、もう一つの精神的旅に我々を連れていく(Ogden)。7-8章の、何が良いかを見出す空しい試みの序、さらに910章の、先に何があるかを知る空しい試みの序のようである。>とある。※1つめは「トーブ」。2つめは「ヨーデア」(「ヨーダア」=知られる)と「ヤッニード」(?)。

岩波版の月本訳の注では、10節の前半については、<人間はあくまでも人間にすぎない、ということ。人間は「大地(アダマー)」から造られ、「人間(アダム)」と呼ばれたのであって(創二7)、それ以上ではありえない。>とあり、10節後半については、「人間は神を訴えることはできない、ということらしい。ヨブ九231415など併照。」とある。12節の「その生涯」は、<原文「それら」。七十人訳は「影のように」を「闇の中に」と訳す。>とある。10節の「存在するもの」という言葉を見て対照的に連想するのは7:24「存在するものは遠くて、深く、また深い。誰がこれを見いだしえよう。」も一句である。こちらの「存在するもの」は被造物ではなく、注で「存在の根拠」とあるから創造主なる「神」をさすのだろう。ただし西村氏の訳は10節の「存在するもの」についてと同じく「起こっていること」(19315610)で、<「神の業」と同じ。>と記されている。

 

「永遠の命、それは唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになることです。」(ヨハネによる福音書 小林稔訳)

 

「それゆえに、あなたがたは互いを受け容れなさい。ちょうどキリストもまた、神の栄光のために、あなたがたを受け容れて下さったように。」(ローマ人への手紙15:7青野太潮訳)

 

「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものなのである。」(コリント人への第一の手紙3:23 青野太潮訳)

 

キリストの頭は神であるということを、あなたがたに知っていてほしい。」(同上 11:3 同訳)

 

「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(同上、15:28 同訳)

 

<パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている>(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』p5)

 

「一コリント一五章においては、キリストの支配がはっきりと神の主権の前で限定されたものとなっている。」(同上書 第一部 5章)

 

「事実、神は唯一人(ただひとり)、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(テモテへの第一の手紙2:5 保坂高殿訳)

 

 イエス・キリストの人格についての問に対する答は「神」とか「人」とかと答うべきではなく、ただ「神の子」と答うるのが聖書に基づく答であります。「神の子」は先在においても、受肉しても、死して甦って昇天しても、常に「神の子」と呼ばれて充分でありまして、それが聖書の語るイエス・キリストなのであります。>(小田切信男著『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト)- 北森嘉蔵教授との討議を兼ねて- 』〔待晨堂書店〕p15)

 

<キリスト・イエスはいかなる意味においても自らを「神」として物語り且つ示しはしなかったのであります。たとえ神にひとしいとまで語られても、神への従属的地位を外す事がなかったのであります。>(小田切信男著『福音論争とキリスト論』p145)

 

「万物がキリストに帰一して、然る後に神に帰一することが、救済の完成でありますから、キリストの業の終る所がある訳であります。そこにキリストの仲保者性の限界があると言えるでありましょう。」

(同上、p215)

 

<神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は「イエス・キリストのみが――全知なる神である」となって「父なる神」を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。>(同上、p263)

 

神はやはり唯一の神――父なる神――であっても子なる神とも、また純粋の霊だけの神とも語られません。要するに三位一体論そのものが、神を客観的にあげつらう論理として既に思い上った論理であります。そしてこれは、イエスも使徒も語らなかった神観であり、明らかに異教化したものと言えましょう。キリスト教界はこの三一神観という信条・教理についても福音の光で検討を加え、多神化しようとするキリスト教の異教化を徹底的に排除すべきではありますまいか。>(同上、p366)