神がすべてにおいてすべてとなる(エー ホ テオス パンタ エン パーシン)

● コリント一 3:23
「しかし(デ)あなたがたは(ヒュメイス)キリストのもの(クリストゥー)また(デ)キリストは(クリストス)神のもの〔である〕(テウー)」(希和対訳)
「しかし、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものなのである。」(岩波委員会〔青野太潮〕訳)
※他の訳は割愛。

●コリント一15:24~25
「それから(エイタ)終りが〔ある〕(ト テロス)、そのとき(ホタン)神に(トー テオー)すなわち(カイ)父に(パトリ)、王国を(テーン バシレイアン)彼が渡す(パラディドー)そのとき(ホタン)すべての(パーサン)君(アルケーン)また(カイ)すべての(パーサン)権威(エクーシアン)また(カイ)力を(デュナミン)彼が滅ぼす(カタルゲーセー)
なぜなら(ガル)彼の(アウトゥー)足の(ポダス)下に(ヒュポ)すべての(パンタス)敵を(エクテルース)彼が置く(フー テー)まで(アクリ)彼は(アウトン)支配し(バシレウエイン)なければならないから(デイ)」(希和対訳)
「次に終りがある。その時、キリストは、王国を神すなわち父に渡し、〔また〕その時、〔神は〕すべての君〔侯〕たちと、すべての権威と権力とを壊滅させるのである。というのも、キリストは、神がすべての敵をキリストの足下におく時まで、〔王国を〕支配することになっているからである。」(岩波委員会〔青野太潮〕訳)
※他の訳は割愛。

●コリント一15:28
「そこで(デ)すべてのものが(パンタ)彼に(アウトー)従わされた(ヒュポタゲー)とき(ホタン)そのとき(トテ)子(ヒュイオス)自身(アウトス)も([カイ])彼に(アウトー)すべてのものを(タ パンタ)従わせた方に(トー ヒュポタクサンティ)従わせられるであろう(ヒュポタゲーセタイ)神が(ホ テオス)すべてに(パーシン)おいて(エン)すべてと(パンタ)なる(エー)ため〔である〕(ヒナ)」(希和対訳)
「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(岩波委員会〔青野太潮〕訳)
※他の訳は割愛。


●聖句レポート説教 「所有されることの恵み」 コリント人への第一の手紙3:23、15:24~25、28(岩波委員会訳)
この3箇所には、岩波委員会訳(青野太潮訳)の注で、パウロの神中心主義が見られるとされています(『新約聖書Ⅳ パウロ書簡』p73、117参照)。
ところで新約聖書学者であり宗教哲学者ともいわれる八木誠一氏は次のように述べておられます。
<パウロ神学は神中心主義か、キリスト中心主義かという問題があります。それで『コリント人への第一の手紙』の第十五章を見ていますと、最後の時に「キリストは神の敵をすべて滅ぼして、すべてを神の御手にゆだねる、そこで神がすべてのすべてになる」と書いてあります(20-28)。神とキリストは、はっきり区別されています。(中略)終末論の一番最後にそう書いてあるわけです。ですから、神がすべてのすべてになるという意味では神中心主義だと言えるわけです。キリストはみずからの支配権を神に渡すと言われていますね。しかし、パウロの考え方を見てみると、やはりキリスト中心主義という感じなんです。(中略)救済、信仰、教会、終末、そういうパウロ神学の中心概念のところでキリストが前面に出てくるわけです。そういう意味では、やはりキリスト中心的だと言わざるをえないんです。>(『キリスト教の誕生 徹底討論』〔青土社〕p147~148)
キリスト教である以上、「キリスト中心」であるのは当然だと考える人は少なくないでしょう。しかし「キリスト教」の「キリスト=メシア」はあくまでも「神=創造主=ヤハウェ」の存在を前提として成り立つものです。何故ならその意味は「油注がれた者=受膏者」であって、油を注ぐ上位者なしにあり得ないからです。歴史的にも「キリスト者」という呼称が生まれたのは、まだユダヤ教から完全に分離独立していない段階です。従って、神が第一の信仰対象であることはわかりきった上での「イエスとは誰か?」であり、「そのイエスの弟子は何者か?」ということだったのです。それが「キリスト教」という宗教名の由来です(佐藤研氏の著書『はじまりのキリスト教』〔岩波書店〕によると、「キリスト教=Christianity」のギリシャ語源は「Christianismos」であり、この語が初めて現われるのは紀元2世紀初めの殉教者であるアンティオキアの司教イグナティオスの書簡だそうです。この時代にはすでにユダヤ教と縁の切れた異邦人キリスト者を主体とする宗教として確立していたようです。佐藤氏はそ
の序章<「キリスト教」というアイデンティティ>で、使徒11:26の記事を批判し、ここで用いられている「クリスティアヌース」〔複・対〕の原形の「クリスティアノス(=キリスト者)」は〔佐藤氏は「Christianoi」としているがこれは「クリスティアノス(Christianos)の複数主格であり、この「クリスティアノス」から派生したのが上記の「クリスティアニスモス(Christianismos)。つまり「キリスト者」という呼称から「キリスト教」という宗教名が生まれたということ〕、文脈上の紀元40年代より後代だと見ており、「ユダヤ教イエス派」から独自性を意識して異邦人信者を前面に出したアイデンティティ言語としての「キリスト教」が、第一次ユダヤ戦争をきっかけに伝播したと説いておられるが、私は、「キリスト教」という名称の起源はユダヤ教の中にあった時であると信じる。「キリスト」は決して「ヤハウェ」に取って代わった「神名」などではない!「キリスト」は元来、人間に対する呼称。「『油をそそがれた者(マーシーアハ)』という呼称は新約ではメシアースと音訳され、キリストを指す(ヨハ一41、四25)が、旧約では終末論的救済者を表すことはない。むしろ現実の王(サム上二10、詩一八51等)、祭司(レビ四3、5、16等)、預言者(詩一〇五15)などの称号である。ここでは、四四28の『牧者(ローエー)』が羊の群れを牧するように民を指導する王を指すから、マーシーアハもその言い換えと取るべきであろう。いずれにせよ、それぞれ『わが』、『その』と人称接尾辞が付せられ、ヤハウェによってたてられた王であることが強調されている。」〔~岩波版旧約聖書イザヤ書45章1節の注〕)。決して「御本尊」を宗教名にしているというわけではありません。でもそう考えがちな人は少なくないのです。しかしユダヤ教もイスラム教も、信仰対象を名前にはしていません。ヤハウェー教とかアッラー教とは言わないわけです。仏教はどうかと言えば、「仏」は信仰対象ではなく「覚者」を意味します。「キリスト教」の「キリスト」は神名でもなければ教祖名でもないです。 

ところで、八木氏がパウロを「キリスト中心主義」とするのに対して青野太潮氏は、パウロは「神中心主義」だといいます(⇒『「十字架の神学」の展開』〔新教出版社〕第一部 5章 .「序にかえて」p5も参照)。そこでは15:23~28が扱われています。問題は24節であり、多くの学者が2つある接続詞「ホタン」のうち、2つめの「ホタン」に導かれる文の主語を「キリスト」とみなすのに対して、青野氏は「神」とみなしています。1つめの「ホタン」に導かれる文の主語は「キリスト」であることは誰もが一致しますが、2つめの「ホタン」に導かれる文の主語は「キリスト」か「神」か明確ではないのです。しかし私はどっちでもよいと思います。ここで肝要なのは28節bの主語が「神」であり、創造主帰一の主旨であることに何ら変わりはないからです。 

カルヴィニズムの特徴として「神中心」と云われるのは、それだけ一般の神学がキリスト中心の度を過ぎていることを物語っています。「キリスト中心」は「神」という究極目的に至る手段に注目する意味では妥当であっても、「主義」がつく程に度過ぎては逸脱となります。何故なら「キリスト」は究極の信仰対象である唯一神を表わすものではないからです。あくまでもその神に至るための「道」(ヨハネ伝14:6)であり「(垂れ)幕」(ヘブル書10:20)であり媒介者であり仲保者なのです。見えない神の啓示者として人から見れば前面に立つ、だからキリストが中心となるのです。視点は少し異なりますが、イエス神格化の強調による問題を踏まえて「キリスト中心主義」(christo-centrisme)を批判する論者がいます(加藤隆『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』〔講談社現代新書〕p256~258)。ただしその中で言われている(おそらく)大貫隆氏に対する批判は的を射てはいません。聖書が示す神は小田切氏が指摘しておられるとおり、「見えない隠れたる神で、霊なる神であり、天にいます父と呼ばれる神」(小田切信男著『福音論争とキリスト論』p111.p9、46、77参照)であり、御子以外には誰も見たことのないお方であり(ヨハネ伝1:18、Ⅰテモテ6:16、Ⅰヨハネ4:12)、その意味では客体化できない、つまり信仰の対象とは言っても人間の顔のような中心の無い無制約者であるので、啓示者であり媒介者・仲保者である御子キリストが中心となる必要があるのです(小田切信男著『キリスト論・ドイツの旅』p132参照)。それが弟子のピリポに対するイエスの答えの意味でもあります(ヨハネ伝14:9)。キリストは「見えない神のかたち」(コロサイ1:15)であり神のイメージだが「神」それ自体ではありません。キリスト教信仰に於いては「キリスト中心」と「神帰一」(ローマ11:36、Ⅰコリ8:6、15:28)とは矛盾しないどころか、まさに一体の事です。その点では我々が「キリストのもの」であると言えます(Ⅰコリ3:23)。しかしキリストの存在意義はそこまでです。彼はあくまでも対神関係の媒体であり究極の信仰対象ではありません。我々はキリストと共に「神のもの」(同)とされてこそ救われるのです。逆に御子キリストを信じて神を有つことができます。

「御子を言ひあらはす者は御父をも有つなり。」(Ⅰヨハネ2:23)
八木誠一氏は、<新約聖書は、万物はキリストを通して成ったと考えている(ヨハネ一・三、コロサイ一・一六)。存在者はキリストに参与し、キリストは存在者の主、万物の主として、存在者と相関的に成り立っていると考えられている。とすれば、存在者と相関的である限り、キリストは究極の存在ではないのである。何故ならここで存在者は直接性において前提されているし、キリストはその「主」としてではあるが、存在者と相関的であるから。ゆえにここにキリストの父であり万物の創造者である神が考えられる必然性がある。>(日本基督論研究会編『キリスト論の研究』〔創文社〕所収〔p74〕の八木氏の論文「ヨハネ福音書のキリスト論」)、また、<キリストは存在者と相関的であり、存在が「どのように」あるべきかの定めであるゆえに、それは究極的なるものではあるが、なお最終の究極者ではない。存在者が「ある」ことの根源が神なのであり、ゆえにキリストは神の子・神の言なのである(中略)キリスト(存在の原型)も聖霊(原型の成就者)も神によって創造されたのではないが、神から出る。すなわち神は存在の維持者(Ⅰコリント三・七、Ⅱペテロ三・七)、究極の統治者(ヨハネ黙示録一九・六)として、また歴史の支配者、摂理の神なのである(エペソ三・二以下、ローマ九~一一章)。(中略)
キリストが『統合への規定』であるゆえに、反キリストは、統合を破壊し、その成就を妨害するもの、すなわち悪霊・罪の諸力と死なのである。これらは存在のロゴスに敵対する反ロゴスであるが、神はキリストを通じてこれらを滅ぼす。ロゴスと反ロゴスの対立の彼岸にある、究極の終末論的勝利者がキリストの父なる神なのである(Ⅰコリント一五・二六~二七)こうして神は、すべてにおいてすべてとなる』(Ⅰコリント一五・二八)。それはもともと神がすべてのすべてであるからにほかならない(ローマ一一・三六)。すなわち神は永遠であり(ヨハネ黙示録一一・一七)、全能であり(マタイ一九・二六、ヨハネ黙示録一一・一七)、全智であり(マルコ一三・三二)、遍在する(マタイ五・四五以下)。これは神が究極の無制約者であることを示す。この神がキリストにおいて我々の父(ローマ一・七)であり、救世主(Ⅰテモテ一・一、テトス一・三)とも呼ばれるのである。」>(八木誠一著『キリストとイエス 聖書をどう読むか』〔講談社現代新書〕p147~148)と述べておられます。このように、御父と御子との間には「究極者」と「究極的なるもの」との区別があるのです。「相関的」とは相対的ということでもあり、その意味では御子は相対性を持つ、この点で創造主なる御父と決定的に区別されるのです。

京大の哲学科および院を出たうえに西独のハンブルグ大学に留学して神学博士の学位も取得されたという稀有の女性宗教哲学者の花岡(別名:川村)永子博士は次のように述べておられます(ちなみに私は電話では話したことがあります)。 

一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。事実、聖書には、神やその子キリストを否定することは許されても、聖霊を拒むことは許されないと語られている。更にフィリ二、七には、神の自己空化kenosisについて述べられている。このように、仲保者キリストは信仰に対する絶対条件ではない。しかも、絶対の人格としての神が自らを空しくして、神と本質において等しい神の子として有限のこの世界に受肉し、磔刑に処せられた後、復活したということは、キリスト教の神の絶対的な人格性が、自らの立場を絶対的に否定して、人間たちに愛 アガペー や慈悲で再生させる力を備えた人格性であることを示している。この事実には、キリスト教の神が、絶対有から成り立っているのみならず、同時に絶対無からも成り立っていることが示されている。」(「発題Ⅰ キリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』vol.5 2006 )

http://nirc.nanzan-u.ac.jp/ja/publications/jjsbcs/ 

 

日本に限らないのかも知れませんが、多くのキリスト者は信仰がキリストで止まってしまっていると感じます。究極の信仰対象はキリストではなくその御父であり創造主です。「神」という訳語を避けるなら「天主」ならぬ「天父」とでも呼びましょう。キリストは創造者ではあっても創造主ではなく、厳格に区別されます(小田切信男著『福音論争とキリスト論』p17、55、111、122、191、『キリスト論・ドイツの旅』p242-243、284、『神学と医療との間』p81参照)。
創造主なる御父は絶対他者であり、律令制の位階に喩えれば「正一位」で、御子は御父に対しては絶対的相対者であり「従一位」です。でも同じ「一品」という意味で「一つ」(ヨハネ10:30)なのです。「絶対」の面は仲保者としての比類なき唯一の主たる固有性に於いて。「相対」の面は創造主の前に「絶対」はあり得ないから。「主イエス」の「主」は旧約の「主」とは異なり、YHWHを意味しません。信仰はキリスト帰一で留まってはならないのであり、我々被造物も御子キリスト御自身さえも、み~んな、全ては創造主なる唯一の神である御父に帰するのです(Ⅰコリ15:28)。「私は裸で母の胎を出た、裸でかしこに帰ろう。ヤハウェが与え、ヤハウェが取り去りたもう、ヤハウェの名は賞め讃えられよ」(ヨブ記1:21岩波委員会訳)>(聖句説教より)
とにかく御子については繰り返しますが「絶対的相対者」です。絶対者はあくまでも御父のみの唯一絶対です。しかし御子が「相対的」だと言っても被造物の相対性と区別されます。彼は永遠に於いて御父から生まれたのです。御父に行くための「道」として「絶対的」かつ「究極的」存在です。神の啓示はキリストのみではないがキリスト抜きにはあり得ません。自然啓示だけでは「キリスト」教たり得ない。「主イエス」の「主」は旧約の「主」とは異なり、YHWHを意味しません。「主」告白の意味には歴史的段階的区別があります(『旧約新約聖書大事典』〔教文館〕p576参照)。
アウグスティヌスは、「あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」(山田晶訳)と、『告白』という著書の冒頭でまさに信仰告白しています。
「キリスト教」とは媒体宗教、仲保者宗教(小田切信男著『福音論争とキリスト論』p84)です。なぜ、「究極」ではない「究極的」なる媒体者の称号を宗教名としているのか?それは究極の信仰対象は創造主にしてキリストの御父なる神であることは自明の前提とされているからです。ユダヤ教から唯一神教を受け継いでいる以上、それは当然でしょう。しかしその「神」を認識する手段としての特殊性が「キリスト」にあるのです。そういう意味での「キリスト」教なのです。
キリスト・イエスが「唯一の主」であるのは仲保者として唯一無比という意味であって、「唯一の神」とは別です。史的イエスの立場はイエスを単なる相対者とするものです。一方、日本のプロテスタント教会はバルトの影響もあって神の存在がキリストに同化してしまう傾向があります。特にリベラル派のバルティアンがそうです。典型的な例を一つ挙げてみましょう。1989年の「日本キリスト者宣言」なるものであり、その起草者は雨宮栄一氏だといわれていますが、この「宣言」にも如実に現れているとおり、氏も昔からバルト好きの牧師として知られています。
「私たちが、あくまでもキリストの主権のもとに、キリストを中心としながら、歴史と世界の中に生き、また他者と共に生きる以外に、私たちの信仰の証しと告白の道はない。そのようなキリスト中心の信仰から、私たちは、天皇代替りによってあらためられた元号なるものを、主権在民に反する天皇中心の独善的、排他的、閉鎖的な国家主義的歴史観、世界観の残滓として、受けいれることができない。」
ここでは「キリスト」は言われているが、肝心の御父なる神には全くふれられていません。信仰対象が媒体であるキリストで止まってしまっているのです。これは「キリスト中心」というよりキリスト中心主義のイデオロギーです。これは初代キリスト教徒がローマ帝国による迫害下で皇帝礼拝を拒否したことに由来するもので、特に、ヨハネの黙示録が書かれたドミティアヌス帝が自らを国民に「われらの主にして神」(dominus et dues noster)と讃え礼拝させたこと(これには異論も出ている~北陸大学の村上良夫教授の論文「礼拝の意味論-『ヨハネの黙示録』を手がかりに-」)へのアンチテーゼとして「イエスは主なり」と告白したという伝説を時代錯誤的にカール・バルトがナチス・ドイツ政権下で教会闘争といわれる形で踏襲した、その告白運動への強い関心にもとづくものです。その運動をさらに日本の天皇制のもとでやりたいのでしょう。そういう神学運動に情熱を感じている連中ですから、キリスト中心主義のワンネス信仰に陥るのも当然と言えば当然です。かつて天皇が現人神といわれていた時のことを思い出して、「神」という言葉の定義はともかく戦時下で実際に絶対化された天皇に対してキリスト者が自分たちにとっての絶対者を示すなら、それは「イエス・キリスト」ではなく「イエス・キリストの父なる神」であって然りですが、雨宮氏などはキリスト告白で事足れりとするのです。
たしかに終末に至るまではキリストが最高主権者ですが、それは御父がそうさせておられるのであり、終末にはキリストそのものも含めて全てが御父なる神に帰一するのです((ローマ11:36、Ⅰコリ8:6、15:28)。その終末まで見通す宣言でなければ聖書的とか信仰的とは認められません。キリストの主権だけを語るのではなく、それをキリストに委託しておられる創造主、究極の信仰対象である御父を告白せよ、と私は言いたいのです。ちなみに私は「神」という訳語は用いたくはありません。日本には「神」を名字とする人もおられるので、自分の信仰対象の呼称と一個人の名とが重なるというのはいかに意味が全然異なるという常識が共有されているにせよ、決して気持の良いものではないからです。
ところで無教会のキリスト者であった矢内原忠雄氏は、「神としての必要の特質の一つは絶対といふことである。即ち絶対神といふ考へであります。」とか、「宗教の最高発展形態たる一神教に於いては、神といふ以上それは絶対者でなければならない。絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質であります。」(~「日本精神への反省」)と述べています。まさにGodのGodたる所以は「絶対者」、より正確には「絶対他者」であることです。単に「絶対者」というだけでは人が自らを絶対化して「神」を名乗ることもあり得ますが、究極の存在は万人にとって「絶対」であると同時に「他者」なのです。
ところで小田切信男氏は「三位一体」批判との関連で、今日の説教箇所であるⅠコリ3:23や15:24~28を挙げています。聖書でいわれる「一体」は「三位一体」の教義でいわれる「一体」とは意味を異にし、<万物がキリストに帰一し(エペソ一・一〇)そのキリストが神に帰一して(コリント前一五・二四及び二七~二八)ここに一つの王国――神の国が形成せられ、父なる神・聖霊・神の長子とその兄弟らと、更に天使と語られる存在や万有の全てが一つとなり、 一切が一つの国――王国のものとなるというのが、聖書が物語る神の国の完成であり、 一つとなることの意味なのではありますまいか。>、さらに<キリスト・イエスは「神」とか「人」とか語られるよりも、むしろ「仲保者」と語られ「神の子」と語られるべきであります。そして「神の子」は、先在時においては「神」ではなく「子なる神」でもなく勿論「人」ではなく、あくまでも「神の子」であって創造の仲保者であります。そして受肉しては全き「歴史の人」でありました。ただ一般の歴史の人と異るのは彼はあくまでも「神の子」と呼ばれる人格で、常に天にて授けられた使命の記憶に生きていたからであります。このようにキリスト・イエスの伸保者性を打ち忘れては、聖書のキリスト論は成立しないのであります。そして聖書は、神にひとしい「.神の子」の創造から終末に至る主体的救済活動を、その主題として語っており、しかもこの「神の子」の活動は「神がすべてにあって、すべてとなられるとき」(コリント前一五・二八)に終りを告げるものであります。すなわち、万物がキリストに帰一して、然る後に神に帰一することが、救済の完成でありますから、キリストの業の終る所がある訳であります。そこにキリストの仲保者性の限界があると言えるでありましょう。>と述べておられます(『福音論争とキリスト論』〔待晨堂書店〕p198、215)。また、「キリストに対する神は、父であるとともに、キリストを世に遣わした方であり、又彼の命に従って十字架に死したイエスを甦らせてその右にあげ給うた方であって、万物をイエス・キリストに従わしめる方(コリント前十五・二七)であります。そして、イエス・キリストは、万物が彼に従った時には――万物を彼に従わせた方である父なる神に自ら従うことになるのでありまして(コリント前一五・二八)、イエス・キリストの首は神であり(コリント前一一・三)キリストは、神のものなのであります(コリント前三・二三)。このように、新約聖書においてはキリスト・イエスの人格と地位とは独自なものであります。すなわち、彼は神と呼ばれるべきではなく――又受肉したからとて人としてのみ止まらず――あく迄も「神の子」と呼ばれるべき方であります。>(『キリストは神か (聖書のイエス・キリスト)』〔待晨堂書店〕p36~37)、さらに、<パウロは「神の子」が終末時においては神に従う(Ⅰコリント一五・二七)と証言し、ここに明瞭にキリスト対神の関係を示しており、これはキリスト論の上からも重大な証言というべきであります。>(『キリスト論・ドイツの旅』p171)と述べておられます。「神の子」については「神の子、〔すなわち〕肉によればダビデの子孫から生まれ、聖さの霊によれば、死者たちの甦りによって、力のうちに神の子として定められた方、私たちの主イエス・キリストについてのものである」(ローマ1:3~4青野訳)の注で<「甦りによって神の子と定められた」という考え方は、他ではパウロにない。>と記されています。これは聖霊のバプテスマによる養子論的聖句(マルコ1:11他並行)と対照的。
私は転会先の教会で日曜学校教師のおじさんから話しかけられ聞いていますと、キリストが神からすべてを託されて、とにかくキリストがすべてのすべてであるかのようなことを言われました。おそらくこの教師の頭には、キリストの高挙(エペソ1:20~21、ピリピ2:9~11)及び全権授与(マタイ28:18)は入っていたのかも知れないが神帰一(ローマ11:36、Ⅰコリ8:6、15:28)は入っていなかったのでしょう。たしかに神はキリストに権限付与(
empowermentされました。

「神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。 」(口語訳エペソ1:20~22)
「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 」(口語訳ピリピ2:9)
「イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 」(口語訳マタイ28:18)
しかしそれは終末までです。終末の時はキリスト・イエスの再臨によって来るのですが、その時は誰も知らない、天使も御子イエス自身さえも知らず、ただ御父なる神のみが知っておられる(マルコ13:32、マタイ24:36)と言われているところに、まさに御子の御父に対する従位・従属が明示されています。
<第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」。そして、神のみまえで座についている二十四人の長老は、ひれ伏し、神を拝して言った、 「今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。 >(口語訳ヨハネの黙示録11:15~17)
<第七の天使がラッパを吹いた。すると、天上でさまざまな大声が上がって、こう言った、「この世の統治権は今やわれらの主と彼のキリストに移れり。彼は世々永遠に王として支配したもう」。>(岩波委員会訳ヨハネの黙示録11:15)
※「われらの主と彼のキリスト」については「すなわち、神とその油を注がれた者=王としてのキリスト。」(岩波委員会訳 注)とあり、「彼は」については「主語が単数形であるのは、多分、神とキリストが一体と考えられたか、あるいは関心が神に集中したため。」とありますが、これは後者の方を採りたいと思います。16節以下では「神なる主」が礼拝されているからです。とにかく、この場合は「主」(=神)の支配なので、キリストは従位でしょう。
「次に終りがある。その時、キリストは、王国を神すなわち父に渡し、〔また〕その時、〔神は〕すべての君〔侯〕たちと、すべての権威と権力とを壊滅させるのである。というのも、キリストは、神がすべての敵をキリストの足下におく時まで、〔王国を〕支配することになっているからである。」(岩波委員会〔青野〕訳Ⅰコリ15:24~25)
キリストは終末において神に御国を渡す(パラディドー)のです。ピリピ書での「主イエス・キリスト」告白も「父なる神の栄光のため」なのです。従って「きたるべき世」でのキリストの上位も、あくまでも(父なる)神に及ぶものではないでしょう。そこには(三位一体ではなく)父と子、神と神の子との主従の秩序があるのです。
この点を明らかにしているのが『NTD新約聖書注解』のH.D.ヴェントラントです。3:22-23の注解の中で次のように述べています。<集会は、万物に対する支配を自分の手に持つのではない。むしろ集会自体がキリストの所有である。ただキリストから、キリストを通してのみ集会はこの世を支配し、死に勝つということが言われうる。(中略)さらにこの自由と拘束の相互関係は、キリストの神に対する関係についても同じく言われる。キリストは集会の主(一二3以下)であり、世界の主(ピリ二9以下、コロ一15以下、二15)であるが、彼がこの力を持ち、かつキリストとしてありたもうことは、ただ神によって神のためにのみである。いまやパウロの思想の力一杯の高揚は、集会のものであって同時にキリストのものであるすべての力と栄光が、その究極の根拠たる神に帰せられることにより、ここに初めてその終着点を見出すのである。>(p77~78)
岩隈直氏は3章23節に関して、まず、協会訳は<「そして」と訳してあるが「しかし」の方がよいであろう>と述べておられます。そしてこの箇所はパウロがストア哲学の「すべてのものは賢者のものである」という考えに対して対照的に述べているものだと解しておられます。それは「信者が隷属し、支配さるべき御方はキリストである。これがストアの思想と根本的に異る所である。信者はキリストに属するものであり、キリストに支配される者である。そして、このキリストに属しキリストに支配されているところに、実は彼らの自由、この世の支配者、主人たり得る道がある。」と述べておられることから察せられます。しかし、と言われます。「しかしこの23節は、そのことを言わんとしたのではなくて、正しい位置づけをしようとしたのであろう。」というのです。正しい位置づけとは正しい秩序とも言い換えることができるでしょう。そうは言いながらも岩隈氏は<更に「キリストは神のもの」という句を追加した(実際はなくてもよいもの)>と述べておられます。いいえ、なくてもよいものではないのです。それはキリスト中心の度が過ぎた人の言うセリフでしょう。パウロの唯一神教的な面に注目するなら、確かに岩隈氏が言われるように「特別の意図があった」とは言い切れませんが、だからと言って取って付けたような言葉だとも言えません。岩隈氏は引用しておられるキュンメルの「考えを神に迄遡らせる彼の性向(一一3、ピリ二11、ガラ一4、5等)」という言葉もそのように受け取れるのです。岩隈氏も、「唯一神の信仰に育ち、一切を神に帰する物の考え方(ロマ一一36)の現われで、彼によればキリストも子として神に従い給う(一五28。なお八6、ピリ二10、11等参照)。」(『岩隈直聖書講解双書4 コリント人への第一の手紙』〔キリスト教図書出版社〕p71~72)と述べておられます。
人は死後にこの世の所有物を持ってはゆけません。ヨブの「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」( ヨブ記1:21)という言葉のとおりです。しかし救いとは、逆に自分自身が主なる神の所有となること、否、すでに神の所有であることを自覚し感謝してその定めに身をゆだねることなのです。私たち罪人が聖なる神の所有とされているのは、御子キリストの罪の贖いの恵みによってキリストのものとされたからです。これは身請けです。ヨハネ伝17章のイエスの祈りにおいて、御父に対して「子に与えて下さったものすべてに、〔子が〕永遠の命を与えるため、肉〔なる人〕すべてに対する権能を子に与えて下さった」と言われています。この場合の「永遠の命」とは3節にあるとおり神とキリストとの「知=交わり」のことだと言われ、第一ヨハネはこれを受け継いで「永遠の命」は「私たちの交わり=父とその御子イエス・キリストとの交わり」に与ることだと述べています(Ⅰヨハネ1:1~3)。「子に与えて下さったものすべて」とはヨハネ伝3:16で御子を信じる者とされているので信徒一般かと思いきや、17:6で「彼らはあなたのものでしたが、あなたは彼らを私に与えて下さいました。」と言われて、その「彼ら」が直接的には弟子達であると思われますが、17:9の「私は彼らのために頼みます。世のためではなく、あなたが私に与えて下さっている人たちのために頼みます。彼らはあなたのものだからです。」(小林訳)という言葉からすると、「あなたが私に与えて下さっている人たち」(ホオーン デドーカス モイ)は弟子達を超えて一般信徒にも及んでいるように思われます。
つまり、神―キリスト―信徒の関係は、神が世から〔とって〕キリストに「与えた」という形において成立していたと言えます。だから入信(というか入関)するのは、当人の意志にとどまらず、すでにその人がキリストに所有され所属しているからです。歴史上の十字架の出来事はその事を客観的に示したものであり、身請けの事実はそれに先立ち、御父の意志に於いて予定されていたことでした。救われる信仰者は生れる前からキリストによって身請けされていた、買い取られていた、贖い取られていたと言えます。「アポリュトローシス」(ローマ3:24他)は「身受け」(身請け)、「買い戻し」を意味します。「アポ」は「~から」、「リュトロオー」は「身請けする」で、「リュトロン」は奴隷を解放するための身代金を意味します。
キリストが十字架につけられたのは、「死の恐れのために一生涯にわたって〔悪魔に〕隷属していた人々を解き放つため」(岩波委員会訳ヘブル2:15)でした。「死の恐れ」という隷属状態から解放するためにその身を献げて我々の身を受け入れて下さった、身請けして下さったのです(同、ヘブル10:10,19~20他参照)。
日本では一般的に、「贖罪」という言葉よりも古くからある「身請」ということで類比的に考える方がわかりやすいかも知れません。言わば「身請の福音」です。普通は男性が女性を身請けするのですが、死を前にしては男も女もありません。そして身請けして下さるお方は普通の人間ではダメで神の御子であるから救いとなるのです。入信者はすでに「神のキリスト」(ルカ)が身請けしておられたのです。普遍的な贖罪か限定的贖罪(ドルト条項)かの判断はともかく、入信(というか入関)するかしないか、福音を受容するか否かは、当人がキリストに身請けされているかどうかにかかっているのです。身請けされていない人はそもそもキリスト教への入信の必要を持たないのです。そしてキリストに身請けされていることを自覚する者は同時にキリストによって贖われるべき(神に対する)罪を自分の内に自覚するのです。キリスト・イエスは<「なぜならば、人の子も仕えられるためではなく、仕えるために来たのだ。そしてまた、自分のいのちを多くの人のための身代金として与えるために〔来たのだ〕」。>(マルコ10:45岩波委員会訳)と述べておられます。私たちがこのキリストに贖われ、すなわち身請けされてその所属となったのは、キリストの所有物になるためではありません。そのキリストもまた神のものだからです。だからルカ文書では「神のキリスト」または「主(とそ)のキリスト」と言われているのです(ルカ2:26、9:20、23:35、使徒4:26)。終わりの時にキリストは王国を父なる神に渡して、委任されていた神の全権を返上されるのです。その際、それまでキリストのものであった我々もまた神に渡され、その所有となります。その恵みによって私たちは何も恐れることはないのです。私たちは神のお守りの内にあり、自分の人生が他者との比較に於いて或は世間的価値観からしてどのようなものであろうとも、そこにはそれなりの意味が与えられるということ、そして自分にとって最も相応しく必然的な死後の行方へと導かれるということを最高の幸いとして実感されるのです。それが永遠の命の恵みに与るということでしょう。キリストはあくまでも仲介者です。我々が究極的には神の所属・所有になるための御取次役なのです。終末までの間です。究極的には神のものとされ神の民になることが救いです。「人は神の民となり、神ご自身が人と共におられ[、彼らの神となられ]る。」(岩波委員会訳 ヨハネの黙示録21:3 )そしてそれはキリストを長子とする神の子の列に加えられるということでもあります。「私は彼の神となり、彼は私の子となる。」(同、21:7)
15章24節については「王国」の解釈が二つの場合に想定されます。復活する組が第二まで考えられていたのか、それとも第三まで考えられていたのかによって異なるのです。岩隈氏は他の箇所との整合性などから、「第三の復活者の群が考えられているものならば、それは救いのためであり、そうでなければ、第一のキリストの復活と、第二の信者の復活とだけが考えられているのであろう。」と想定し、<ここで言う国は、もし第三の復活が考えられていたものならば、現在の霊的な支配、霊的神の国(ロマ一四17)ではなく、キリストの再臨に始まり、「終り」迄続くもの、従ってこれはユダヤ教の終末劇によって考えられていた「メシヤ王国」で、黙示録ではその期間が千年と考えられ(二〇6)、第四エズラ書では四百年と考えられていたものである。>(前掲書p327)と言われ、<もし第二の信者の復活だけがあり、その後に「終り」が続くと考えられていたものならば、これはキリストの復活から再臨迄の霊的王国を指すことになる。telosを「終り」と解する者はそう解する。>(同、p328)と言っておられます。28節については、<これは終末劇の大詰で、万物がキリストに服従させられる時、キリスト御自身も神に従い、その支配権を神に返し給う。かくして神の国が実現する。「神に従う時」という協会訳はよくない。原文は「彼」であるが、、文脈上キリストである。神が万物をキリストに従わせ給うたのである。それ迄はキリストの役目であり、キリストの仕事であったが、実は神がそうさせ給うたのである。だから今や役目を終ったキリストは、神の子としての位置に戻り、救われた者達の長兄として神に従い給うのである(ロマ八29)。>(同、p330)と述べられ、「神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。」(協会訳)の解釈に移ります。ここで岩隈氏は、<「すべての事においてすべてとなられる」とも解される。>と言われているのですが、その意味するところは、協会訳(口語訳)で「すべての者」と訳されている「パーシン」は「すべての」を意味する形容詞「パース」の男性形とも中性形とも両方にとれるから、中性形ととる場合は人を示す「者」ではなく「事柄」の「事」と訳して「すべての事」となるということです。しかし普通は青野太潮訳のように平仮名で「もの」と表記する方が、どちらでも通用するので一番よいと思います。そして「ヒナ エー ホ テオス パンタ エン パーシン」の釈義へと続きます。これについて岩隈氏は、<一切において一切となる、一切は神の支配下にあり、神の御手にあるようになると。>・・・、これは<「御心が天に行われるように、地にも行われるように」との主の祈りが実現する、即ち神の国が実現することを意味したものである。こういう表現にはヘレニズムの神秘主義の影響があると言われている。ただパウロにおいては汎神論的な意味ではなく、支配の完全性の表現として用いられている。>と述べておられます。この点は重要です。そして更に重要なことがこれです。<ここではキリストは御子としての位置に立ち、神のみが支配するという一神教の立場が貫徹されている。キリストの「支配は永遠ではない。そのすべての結論を含ませたキリストの神性という厳密な教義をパウロは知らない」(ブセット)。>(p330~331)・・・、そうなんですね。パウロの教説には御父と御子との関係について後代の三位一体だの神人二性一人格だのといった厳密な規定など無いのです。

織田昭先生の『第一コリント書の福音』(教友社)の26~28節については、<最後の一文は、あまりに哲学的で、凡人には理解しがたいようにも思えます。「すべてにおいてすべて」と訳した原文の「タ・パンタ・エン・パシン」〔希語省略〕は、「すべての存在にとって、すべての意味を持つもの」とでも訳せる一句です。太陽系の地球との関わり――その上に住む私たち「ヒト」という存在への憐れみの話は、そこで一応完結するのです。そこではキリストという、歴史上の最も重い人物も、役目を終えて、視界から消えます。そこから先は、すべての存在に意味を与えて支配なさる「聖なる神」だけが、視野に広がります。27節と28節の表現は、あまりにヘブライ的で、意味のすべてを汲み取ることは、私たちには困難ですけれど、私には、使徒パウロの意味は、次のように受け止められます。少なくとも、この歴史の完成の時点までは、肉なる人間としてあなたは、御子キリストを中心に、自分の命のことを考えよ!>(p327)と言われています。ここでもキリスト中心が言われていますが、それもあくまで「歴史の完成の時点まで」です。織田氏も「究極的なもの」に止まって「究極者」への関心が後退しているようですが、《研究者のための註》では、<28節の最後の8語の趣旨は、「この時点までは、太陽系の地球に住む人間との関係における神―‐あなたを生かし給う執念の神を考えよ」、「ここまで連続している贖罪の聖事業を受け止めよ」ということかと私は理解しています。>(p330)とのことです。8語とは「ヒナ エー ホ セオス 〔タ〕 パンタ エン パーシン」であり、末尾「すべてにおいてすべて」(タ パンタ エン パーシン )の「エン パーシン」は「すべてのものとの関連において」,「すべての存在にとって」の意味であるとされ、(父なる)神はキリストが王権支配を父に引き渡される時点、御子自身が父に服従されるという出来事が実現する時点以前も「すべての存在にとってすべて」であられたはずであると述べています。つまり<贖いと「死者を生かす聖事業の完成」が語り終えられるとき聖書の視点がより広い「すべて」との関わりにおける神(創1:1)に戻ることを表現した一句>とのことです(p330)。

ついでに8章6節の注解も、この説教の箇所とも関連するので見ておきましょう。<「主」〔希語省略〕は「唯一の神」「父なる神」を指す以外考えられなかった神聖な言葉です。>(上掲書p195~196)・・・LXXではヤハウェを示す「主」(アドナイ)の訳語が「主」(キュリオス)だからという単純な理由によるものです。それで「神聖な言葉」だというわけです。そしてアレイオスが<「唯一の主」として崇めるのは、唯一神の信仰と矛盾すると主張>したことを引き合いに出し、それは「哲学」の考え方で、信仰は「神とキリストの二重写し」の告白へと飛躍するのだというのです(p197)。その飛躍が讃美告白という意味ならわからないことはないし、「二重写し」と言われるその「二重」が実体論的な意味でなければよいのですが、どうもそのようには思えません。というのは《研究者のための註》で、「二重写し」の例として挙げられている箇所はすべて信条主義者が「キリスト=神」の典拠として挙げるものだからです(ヨハネ1:1,18、14:9、20:28、ロマ1:7、Ⅱペテ1:1〔新改訳〕、テトス2:13)。織田氏が「主」であるキリストを「神」と同一視する直接の根拠は、「万物はこの主によって存在し、わたしたちも、この主によって存在している」という場合の「主」を創造主として受けとめることにあります。しかしそこが誤解であり、創造主は父なる「神」のみであってキリストは創造の「仲介者」なのです。万物はキリストが造ったのではなくキリストを通して造られたのであり、「~によって」という意味はあくまでも媒介の意味です。だから小田切氏もキリストを「創造者」と呼び、「創造主」と区別しています。M・ヘンゲル著、小河陽訳の『神の子 キリスト成立の課程』(山本書店)に於いても、この8章6節に関して「父は創造の根源であり目的である。それに対してキリストは仲介者である。」と明言されており、パウロにとってのキリストの特徴が「創造の仲介者としての身分を持っていること」が挙げられています(p23)。また『新共同訳新約聖書注解Ⅱ』(高橋敬基)や『新共同訳新約聖書略解』(松永晋一)は(いずれも日基教団出版局)、当該個所について「父なる唯一の神は万物の起源であり終極なのである。これに対し主は万物の(創造の)仲保者として捉えられている。」(注解p94~95)、「創造の仲保者としてのキリストの宇宙論的役割と、人間の救いの仲保者としてのキリストの救済論的役割を示す。」(略解p456)と、共にキリストを「仲介者」または「仲保者」であることが強調されており、神の根源的創造の役割と、キリストの仲保的創造の役割とを区別しています。これは『NTD新約聖書注解7 コリント人への手紙』の当該個所の注解と軌を一にしているので参照したのかも知れません。

6節は5節と切り離しては意味をなしません。5節では所謂、「拝一神教」が示されており、岩隈氏が<唯一の神の外に神々の存在を認め、「我々には唯一の神のみいます」という句は、一見、唯一神教的でなく、拝一神教的であるが、それらの神々は、万物の創造者でもなければ、万物の帰する目標でもなく、デーモンと称される諸霊であり、やがてそれらはキリストに征服されるのであるから(一五24)、やはり唯一神教的信仰が言い表わされているのである。>と述べておられるが(『岩隈直聖書講解双書 4 コリント人への第一の手紙』〔キリスト教図書出版社〕p159~160)と述べておられることには無理を感じます。「唯一の父なる神」であって「唯一の神である父」とは言われていないことに注意すべきです。ここでは明らかに他の神々の存在が暗黙裡に前提されています。

NTD注解では6節について次のように記されています。<「主」というのは当時のオリエントの諸宗教に広く見られる神の称号であったが、ギリシア世界にも入り込み、とくにヘレニズム・ローマの支配者崇拝と、救済者としての神性を拝する祭儀とにおいて、非常な意味を持つに至ったものである。「主」(キュリオス)という称号の中には、つねに神の尊厳と支配や超地上的な力が、またしばしばキュリオスの名で呼ばれる神性の救済力が含まれている。けれども、唯一の真の神は世界の創造者であり(中略)キリストは創造の仲立ち(コロ一16)であり、かつキリスト者の仲立ちであって、集会は彼によって成るのである。(中略)パウロがここでキリストの先在と世界創造における仲立ちとを教えていることは明らかである。キリストはまさに仲立ちとして、かつ永遠の神の子として主なのである。>(p143)ここではキリストが「仲立ち」であることが繰り返し指摘されています。つまり、織田氏のように、「主によって存在している」と書かれているからといって「創造主」の「主」の意味で読むと、キリストの仲保者としての性格を見誤るということです。キリストはあくまでも「創造者」なる「仲保者」であって、その媒介者としての特殊な働き、仲保者としての役割、特に贖罪の死が特別であり唯一無比であるという意味で「唯一の主」と言われるのであり、「唯一の神」とは全く違うのです。6節の前半で言われているとおり、万物がそこから出てそこへ帰って行くところは唯一の「神」であって唯一の「主」ではありません。この説教の箇所でもある、同じ第一コリント書の15:28でも神とキリストとは、あえて区別して示されています。その「神」が万物の根源者であるところの創造主なのです。パウロ書簡のキリスト論全体から見ても、この箇所だけが「唯一神=唯一主」の意味で言われているとは思えません。この箇所の背景にはコリントの教会が置かれていた多神教的風土が考えられます。信徒は唯一神を信じているはずが、多神教的影響を受けていたようです。それが「唯一の神」と「唯一の主」への信仰告白定型が必要とされた理由でしょう。
NTDの15:28の注解では次のように語られています。<神と父とは同じ一人の方である。「キリストは神と並ぶもう一人の神ではなく」、「神の名が全く聖とされ、神の国が完全に到来し、そして神の意志がこれまで天において行われたように最後には地においても行われるために生き、かつ支配するのである」(フェツァー K.Fezer)。> 聖書に於ける唯一神教は、このように御父に対する御子の従属・従位というものが示されて然りです。(※太字は私記。)「キリストの頭は神」(Ⅰコリ11:3)なのですから。
また、『シュラッター新約聖書講解7 コリント人への第一の手紙』(新教出版社)の15:23-24の講解の中では<キリストの支配には開始があり、それゆえに終結がある。(中略)パウロは、いつ、いかにキリストが、その支配を開始するかについて語らず、いつ、いかにキリストが、その支配を終結させるかについて語るのである。(中略)御自分によって神の御旨がなるために、それをゆだねているのであるから、キリストの支配には終結がある。(中略)イエスの王としての職務もまた、父が彼にゆだねた者たちに行使する職務であって、その王としての職には、目標があるゆえに、その職務にも終結がある。キリストは、彼の果たすべきことを完成し、その目標が達せられた後で、支配を神に渡されるのである。>(p211~212)と再三にわたってキリストの支配に「終結」があることを強調しています。また、15:27b-28の講解では御子と御父との関係が、「神が御子を一切において服せしめて、一切を御子の所有となすのである。(中略)御子は、彼の全き意志と彼の全き栄光をもって神から出ているゆえに、彼のなす一切もまた、神を目指してなされ、しかも今やもはや御子においてのみ神が現わされるだけでなく、一切において神が現わされることにおいて御子の終結がある。御子は、すべての者にとり、神との間に立つ仲保者であるゆえに、すべての者にとり生命の源なのである。」(p214)と述べられています。
自分の存在価値がわからず絶望的になっている人も、そんなわが身を受け入れて下さる「神のキリスト」(ルカ)がおられることを思えば希望が生まれてきます。そしてわが身への執着も無用となります。復活しようと消えようと、生きたことの意味は永遠に消えません。終末には生命を与え給うた神がすべてのものにおいてすべてとなられるのであり、その神のもとで信仰者各人の人生の意義が永遠に保持されるのです。この世では自分にとって最も大切なものが己が命であれ、命よりも大切な何か(たとえば家族とか・・・)であれ、これを永遠に自分だけのものとすることは不可能ですが、聖書に於いてはむしろ自分のものではなく永遠の主権者であられる創造主のものとすることによって可能となるということが示されます。つまり己が命を永遠に保持したければ自分のものではなくキリストのもの、ひいては御父なる神のものとされることによってこそ可能となるという、ある種の逆理がそこにはあるのです。

今回の3箇所を通しておぼえておきたい言葉は以下の3つです。

1.「ヒュメイス クリストゥー,クリストス テウー」(あなた方はキリストのもの、キリストは神のもの)3:23
2.「ホタン パラディドー テーン バシレイアン トー テオー カイ パトリ」(そのとき 彼が王国を渡す 神すなわち父に)15:24
3.「ヒナ エー ホ テオス 〔タ〕 パンタ エン パーシン」(神がすべてにおいてすべてとなるため)15:28

「永遠の命、それは唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになることです。」(ヨハネによる福音書 小林稔訳)

 

「それゆえに、あなたがたは互いを受け容れなさい。ちょうどキリストもまた、神の栄光のために、あなたがたを受け容れて下さったように。」(ローマ人への手紙15:7青野太潮訳)

 

「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものなのである。」(コリント人への第一の手紙3:23 青野太潮訳)

 

キリストの頭は神であるということを、あなたがたに知っていてほしい。」(同上 11:3 同訳)

 

「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(同上、15:28 同訳)

 

<パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている>(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』p5)

 

「一コリント一五章においては、キリストの支配がはっきりと神の主権の前で限定されたものとなっている。」(同上書 第一部 5章)

 

「事実、神は唯一人(ただひとり)、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(テモテへの第一の手紙2:5 保坂高殿訳)

 

 イエス・キリストの人格についての問に対する答は「神」とか「人」とかと答うべきではなく、ただ「神の子」と答うるのが聖書に基づく答であります。「神の子」は先在においても、受肉しても、死して甦って昇天しても、常に「神の子」と呼ばれて充分でありまして、それが聖書の語るイエス・キリストなのであります。>(小田切信男著『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト)- 北森嘉蔵教授との討議を兼ねて- 』〔待晨堂書店〕p15)

 

<キリスト・イエスはいかなる意味においても自らを「神」として物語り且つ示しはしなかったのであります。たとえ神にひとしいとまで語られても、神への従属的地位を外す事がなかったのであります。>(小田切信男著『福音論争とキリスト論』p145)

 

「万物がキリストに帰一して、然る後に神に帰一することが、救済の完成でありますから、キリストの業の終る所がある訳であります。そこにキリストの仲保者性の限界があると言えるでありましょう。」

(同上、p215)

 

<神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は「イエス・キリストのみが――全知なる神である」となって「父なる神」を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。>(同上、p263)

 

神はやはり唯一の神――父なる神――であっても子なる神とも、また純粋の霊だけの神とも語られません。要するに三位一体論そのものが、神を客観的にあげつらう論理として既に思い上った論理であります。そしてこれは、イエスも使徒も語らなかった神観であり、明らかに異教化したものと言えましょう。キリスト教界はこの三一神観という信条・教理についても福音の光で検討を加え、多神化しようとするキリスト教の異教化を徹底的に排除すべきではありますまいか。>(同上、p366)