矢内原忠雄氏の宗教論

矢内原氏の宗教に関する表現には、「実験」だの「証明」だの「証拠」だのといった科学的概念の不適切な適用がある。要するに大げさなのだ!以下、引用。

神を認識する宗教的方法は啓示による。神は人間の理智的探究によりては発見せられない。それは宗教的直観によりて認識せらるる外はなく、従つて宗教は神秘的である。尤も宗教は客観的経験を全く超越し、又は理智的倫理を全然無視するものではない。宗教は自然界及人間界を包括する宇宙的秩序を理解する為めの前提として神を立てる。この神を前提とする世界観人生観が果して自然界及人類の歴史に於て、又自己の実生活に於て、客観的に実証せられ確認せられるやを実験する。この客観的実証過程に於て確認せらるる限りに於て、宇宙及人生の宗教的認識は妥当なりとせられる。人生の実験的証明を経ざるものは宗教に於ても真理ではない。この事は恰も科学がその研究対象たる現象の説明の為めに、前提たる仮説を立てるが如くである。例へば物理学者がエネルギーを、生物学者が生命を、経済学者が価値を前提し、之によつてその研究対象たる諸現象の説明を試みるが如くに。

宗教は宇宙及人生の意味を理解する前提として神を認める。故に神は理智の前提である。否、神は智慧そのものの人格化なりとせられる。だから宗教はそれ自身知識に対立するものではなく、却つて知識を包含し、之を奨励する。勿論かく神を前提することは現象界に対する特定の知的理解の内容をば宗教的に予断するものでは無い。知識の内容は科学によりて探究せらるべきものである。神は知識であるが故に、神の造れる(宗教的表現を以てすれば)現象界の法則は知識によりて探究せられねばならない。神は科学の敵ではなく、最善の科学的知識は現象の説明としては最も神に近い。科学の進歩によりて除去さるる神若くは神の属性は、真の神ではなかつた筈である。それ故に一の宗教が迷信であるや否やは、その科学に対する態度を以て判断し得られる。科学による正体暴露を怖るる宗教は凡て迷信であり、科学的検討を歓迎するものは真の宗教である。

かく宗教は科学の敵ではないが、併し乍ら神そのものは科学的理智によりて知らるるものではない。神を発見するものは啓示であり、独断である。物質学者がエネルギーを前提し、経済学者が価値を前提することも亦或る程度の独断ではあるが、宗教が神を独断するは、之等に比し科学的意味に於ける合理性に乏しきものと言はねばならない。宗教は科学を排斥しないけれども、宗教自体の中には善かれ悪しかれ科学を超えたる神秘的要素がある。故に若し現象以外に世界なく科学以外に知識が無いとすれば、宗教は当然本質的全部的に否定せらるべきである。ただ現象は世界の一部であり、科学は知識の一部である場合に於てのみ、宗教と科学とは両立する。而して宗教は啓示による神を前提することによつて、始めて現象界非現象界一切を包括しての宇宙及人生の意味を最も善く理解し得るものと主張するのである。(中略)

以上を要するに、宗教は人間以外に絶対的人格の存在を認め、科学以外に啓示を認むるものである。之等の本質的条件を肯定せず若くは曖昧に附するものは、如何にその表現の形式が宗教的仮装を被つても、その実質は宗教ではなく又それだけ宗教より遠ざかる。それは一の合理主義として、単なる観念論となり、或は唯物論にさへ帰一するであらう。>(~「宗教と科学と政治」~「全集 第18巻」p9092

前半では、いかにも宗教的真理が科学的真理と同様に客観的に証明され得るかの如き表現がなされているが、これは語り過ぎであり、はっきり言って間違いである。そもそも、「神そのものは科学的理智によりて知らるるものではない」ことなどはじめからわかりきっていることであり、それはずっと後の方で語って、前半ではそのことにふれずに、いかにもその「神」を知るための「啓示」に科学的批判に耐える客観性でもあるかのような無用な弁論を述べている

宗教的真理は決して客観的に証明し得ない。矢内原氏自らが述べておられるとおり「宗教的直観によりて認識せらるる外はな」いのである。実験して証明することなど当然、不可能である。矛盾したことを述べている。支離滅裂ともとれる。宗教的真理は、あくまでも個々人が内面に於いて直観的に知る(実験ではなく体験によって知る)のみである。「啓示」が恰も普遍・客観的に成り立つかのようなもの言いであるが、これも教典などを媒介するものであり、結局のところ、それを「啓示」と認めるか否かという個人の主観的判断によるのである。たとえば聖書を神の「啓示」だと認めれば教典となるが、認めなければ古典文献の一つにすぎない。それでも聖書は存在意義を有する。だから宗教の実態は後半で暴露されることになる。「独断」と言われているとおりだが、他の「独断」と比べても合理性の点で一方、後退するのが宗教的独断である。滝沢克己氏は、「私の言うことは独断的にみえるでしょう。神は人間の意志とは全く独立だというのだから。しかしその独断に耐えなければ、ほんとうの討論などというものもね、人間にはできないです。」と述べたそうだが、それくらいの開き直りによってしか語り得ないのが宗教的真理というものだ。そしてそれはとりもなおさず実存的真理だということを意味する。宗教的真理は「絶対」とか「普遍」とか言われても、それは各人の内面に於いて見出されるものだから、それを表出した場合は相対性を免れ得ない。従って絶対の真理は(小田垣雅也氏の真似ではないが)相対性に於いてのみあるという奥歯にものがはさまったような曖昧な言い方になる。また、「宗教は人間以外に絶対的人格の存在を認め」ると言い切るのはそれこそ独断的であり、斯様な宗教ばかりではなく、宗教学者でもない矢内原氏の設けた要件を満たさず、その定義にあてはまらない宗教を観念論と一蹴することは傲慢のそしりも免れ得まい。

<日露戦争の後明治四十年八月に、文学博士法学博士加藤弘之先生の『我国体と基督教』といふ著述が出版されました。先生は此の書を以て、基督教は日本の国体と相容れずと断定を下されました。当時日本の基督教徒は二十万人位しか居ないが、もつと人数が殖えて来れば憂ふべき結果を生ずるといふ見解の下に、之を発表せられたのであります。(中略)

要するに基督教は唯一最高の世界神を崇敬するのであるから国家の利益と衝突するものであり、又天皇を至高とする我国体に一致しないものである。それも唯一真神なるものが実在すれば格別、それは何の証拠もなき化物に過ぎないと、かう言はれるのであります。博士は此の書によつて基督教徒を攻め、我々の恩師内村鑑三先生を打つたのでありました。(中略)

科学的に証明出来ないものは皆お化だと言はれる博士の科学万能の唯物的議論そのものが決して真理でありません。少くとも、加藤博士以上であらう処の自然科学の大家が基督教を信じて居るといふ事実、又基督信者は慈善事業に於て功績があるといふ事実を認められる以上、その事実自体が基督教の真理についての一の証拠であると見られませんか。爪の垢ほどの証拠もないと博士は言はれますが、証拠があるのにそれを証拠として認識しないのではありませんか。>(~「日本的基督教」~同前p214216

これこそまさに独断的であり独善的でさえある。自然科学の大家がキリスト教徒であるとか、キリスト教徒が慈善事業をして社会的に評価されているとか、そんなことがキリスト教の「神」の存在証明になどなるはずがない!認識しないのではなく、証拠などそもそも無いのだ!このような文言は実にナンセンスの極みである。決して客観的ならざるキリスト教を少しでも客観化しようとする社会科学者の詭弁にすぎない。 

 

 

「永遠の命、それは唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになることです。」(ヨハネによる福音書 小林稔訳)

 

「それゆえに、あなたがたは互いを受け容れなさい。ちょうどキリストもまた、神の栄光のために、あなたがたを受け容れて下さったように。」(ローマ人への手紙15:7青野太潮訳)

 

「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものなのである。」(コリント人への第一の手紙3:23 青野太潮訳)

 

キリストの頭は神であるということを、あなたがたに知っていてほしい。」(同上 11:3 同訳)

 

「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(同上、15:28 同訳)

 

<パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている>(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』p5)

 

「一コリント一五章においては、キリストの支配がはっきりと神の主権の前で限定されたものとなっている。」(同上書 第一部 5章)

 

「事実、神は唯一人(ただひとり)、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(テモテへの第一の手紙2:5 保坂高殿訳)

 

 イエス・キリストの人格についての問に対する答は「神」とか「人」とかと答うべきではなく、ただ「神の子」と答うるのが聖書に基づく答であります。「神の子」は先在においても、受肉しても、死して甦って昇天しても、常に「神の子」と呼ばれて充分でありまして、それが聖書の語るイエス・キリストなのであります。>(小田切信男著『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト)- 北森嘉蔵教授との討議を兼ねて- 』〔待晨堂書店〕p15)

 

<キリスト・イエスはいかなる意味においても自らを「神」として物語り且つ示しはしなかったのであります。たとえ神にひとしいとまで語られても、神への従属的地位を外す事がなかったのであります。>(小田切信男著『福音論争とキリスト論』p145)

 

「万物がキリストに帰一して、然る後に神に帰一することが、救済の完成でありますから、キリストの業の終る所がある訳であります。そこにキリストの仲保者性の限界があると言えるでありましょう。」

(同上、p215)

 

<神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は「イエス・キリストのみが――全知なる神である」となって「父なる神」を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。>(同上、p263)

 

神はやはり唯一の神――父なる神――であっても子なる神とも、また純粋の霊だけの神とも語られません。要するに三位一体論そのものが、神を客観的にあげつらう論理として既に思い上った論理であります。そしてこれは、イエスも使徒も語らなかった神観であり、明らかに異教化したものと言えましょう。キリスト教界はこの三一神観という信条・教理についても福音の光で検討を加え、多神化しようとするキリスト教の異教化を徹底的に排除すべきではありますまいか。>(同上、p366)