本源者

 

「地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。」(マタイ23:9

 

「仮りに私を愛しているのなら、あなたがたは私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずである。父は私よりも大いなる方なのだから。」(ヨハネ14:28)

 

神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アァメン。」(Ⅰテモテ6:16

 

存在(者)は死を免れないがその根拠は不死である。

自己の存在は死によって滅び去り消え失せようとも、自己存在の根拠である創造主が不死・不滅である以上、自己は虚無に帰することは無い。

その方から万物は出で、われらはその方へと〔向かう〕。」(Ⅰコリント8:6青野太潮訳.ローマ11:36参照)とあるとおり、「神」が自分の存在の根拠であり同時に帰するところ、人生の始め(アルファ)であり終わり(オメガ)。

※Ⅰコリ8:6の前半部は、新改訳では「すべてものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。」口語訳では「万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。」、新共同訳は「万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。」。後半部は、岩波版(青野訳)は「その方によって万物は成り、われらもその方による。」、新改訳は「すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。」、口語訳は「万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。」、新共同訳は「万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」と訳し、(存在せしめているのはキリストではなく神ヤハウェであるのに、この区別をなくして)「キリスト=神」にしてしまっている。この点は日本語対訳ギリシア語新約聖書も同じで「ディア」の訳を「よって」の後で括弧内に「存在する」と補っている。ここで「主による」というのはキリストを媒介してという意味であろう。「ディア」には手段や媒介の意味がある。決してキリストが存在の根拠であるという意味には解せない。

キリストは究極的ではあるけれども、なお最終の究極者そのものではない。それは存在者が「どのように」あるかの根拠であって、存在者が「ある」ことそのことの根源ではない。そして存在者の「存在」の根源、すなわちあらゆる有の創造者は神なのである。だから新約聖書ではキリストだけではなく、神が語られ、神が創造者なのである。>(八木誠一著『キリストとイエス』〔講談社現代新書〕p135)

存在するものの「存在」の根源、つまり有の創造者は神なのである。そして存在するものが「どのようにあるか」はロゴスによって定められる。だから、「すべてのものは、(神によって)、ロゴスを通じて、成った」といわれる(ヨハネ一・三)のである。>(同、p138)

キリストは存在者と相関的であり、存在が「どのように」あるべきかの定めであるゆえに、それは究極的なるものではあるが、なお最終の究極者ではない存在者が「ある」ことの根源が神なのであり、ゆえにキリストは神の子・神の言なのである(中略)キリスト(存在の原型)も聖霊(原型の成就者)も神によって創造されたのではないが、神から出る。すなわち神は存在の維持者(Ⅰコリント三・七、Ⅱペテロ三・七)、究極の統治者(ヨハネ黙示録一九・六)として、また歴史の支配者、摂理の神なのである(エペソ三・二以下、ローマ九~一一章)。>(同、p147)

 

根拠はそこへと帰入する対象であり、それは創造主である父なる神しかいない。キリストは創造者であり、神の創造の御業の媒体となった者であっても創造主ではないのだ。その点で新共同訳はバイアスのかかった訳になっている。これではパウロが「唯一の神」(エイス セオス)と「唯一の主」(エイス キュリオス)とを対照的に区別して書いた意味が無くなる。

ヨハネ福音書17:3も同様で、記者ヨハネは「唯一の真の神であるあなた」(セ トン モノン アレーセィノン セオン)と「あなたが遣わされたイエス・キリスト」(ホン アペステイラス イエースーン クリストン)とを分けて、「唯一の真の神」は「キリストの父」であって「キリスト」ではないということを明示している。そのヨハネが冒頭でイエスを「独り子なる神」(1:18)と正気で語っているのだとすれば、彼は「唯一の真の神」と「御父」と、「真の神」ではない「神(的存在)」としての「御子」とを賛美していることになる。いずれにせよ、「キリスト」に対して言われる「神」(セオス)は「真の神」と区別された存在ということである。

 

ネオ・プラトニズムの影響を受けたイスラームのイブン・アラビーの思想について井筒俊彦氏は次のように述べている。

<存在モデルとしての三角形の頂点を(中略)イブン・アラビーは、三角形の頂点に、(中略)「存在」、純粋な存在、つまり絶対不可視状態(ghaib)における存在をおきます。ということは、三角形の全体を生命的エネルギーとしての「存在」の自己展開の有機的体系とみることであります。この頂点をイブン・アラビーは述語的に、絶対的一者(ahad)と呼びます。(中略)三角形の頂点がアハドです。アハドとはアラビア語で一ということ。しかし、イブン・アラビーの考えでは、これは数の一ではなくて、むしろゼロであります。(中略)ここでいう存在零度、存在のゼロ、零度の存在性とは形而上的な意味での絶対の無です。しかし、絶対の無ではあるが、そこからいっさいの存在者が出てくる究極の源としては絶対の有であります。(中略)このアハド=絶対一者を頂点としてそこに広がる形而上的領域を存在のアハディーヤ(ahdiyah)の領域、つまり絶対一者性の領域と呼びます。(中略)この絶対的一者は自らのうちに現象的存在の次元で自らを顕そうとする強力な根源的傾向があります。>(『イスラム哲学の原像』122頁~)

この「究極の源」としての「絶対的一者」ということがネオ・プラ的であり、ネオ・プラでは「絶対的一者」(ただし人格神ではない)の「顕現(エピファニー)」として「多」なる存在者が流出し生成流転するのだ。

 

ところで、私は、正統派の解釈はほとんど受け入れられないが、その正統派に属する牧師の説教の中でも共感することが多い藤掛氏が次のようなことを述べている。

私たちが信じる唯一の神は、私たちの父であられる方です。万物はこの神から出ている。この世界の全ても、私たちの命、人生も、父である神によって与えられているのです。そしてわたしたちはこの神へと帰っていく。「帰る」という言葉は原文にはなくて、直訳すれば「私たちはこの神へと」となります。それは様々な広がりを持った言葉であって、私たちはこの神に向かって、この神へと顔を向けて生きる、ということでもあるし、命はこの神から出た、ということとの対応で考えるなら、この神のみ手の中へと命を返し、死んでいく、ということでもあります。私たちの誕生も、人生の歩みも、そして死も、この父である唯一の神様のみ手の中に置かれているのです。>(~2007.5.6説教「唯一の神、唯一の王」)

ここで「創造主」とはすなわち「根源者」であるということを示される。
なお、ここでイエス・キリストを「主」と告白しているところの「主」とは5節の「多くの神々や多くの主が存在する〔と言われている〕ように」云々の「主」に対応する相対的概念である。「多くの神々」と並んで「多くの主」と言われている、その「多くの主」の中でキリスト者は「イエス・キリスト」を「唯一の主」であると告白するのであって、「主」が存在論的に「唯一」であるという意味ではない。パウロは、そうした存在論的関心から「唯一」と述べていないことは、「たとえ神々と言われるものが、天においてであれ、地上においてであれ、存在しているとしても」という言い方から察せられる。文脈からして、「主」についても同様に「たとえ多くの主が・・・存在しているとしても」という意味で言われていることがわかる。すなわち「神」については「唯一神教」ではなく「拝一神教」の立場であり、「主」についても「唯一主教」ではなく「拝一主教」とでも言える実存的態度である。この点でⅠコリ8:5~6に関する岩隈直氏の次の言葉には無理があるだろう。

<唯一の神の外に神々の存在を認め、「我々には唯一の神のみいます」という句は、一見、唯一神教的でなく、拝一神教的であるが、それらの神々は、万物の創造者でもなければ、万物の帰する目標でもなく、デーモンと称される諸霊であり、やがてそれらはキリストに征服されるのであるから(一五24)、やはり唯一神教的信仰が言い表わされているのである。>(『岩隈直聖書講解双書 4 コリント人への第一の手紙』〔キリスト教図書出版社〕p159~160)

「主」については次のように述べられている。

<ここでパウロがその存在を認めている「多くの神々や多くの主」は何を指すのか。「主」という語は東方の宗教から入って来たもので、当時礼拝の対象とされていた者に附けられていた。神々は礼拝者に対して「主」なのである。従って神々と主とは同一のものを指し、ただ主キリストに対応して、「主」を挙げたとも解される。しかし神々の外に「主」を考えていたことも可能であるし、またその主の中には「主」として礼拝された王や皇帝(カイザル)も含まれていたと見ることもできる。しかし霊的存在の神々としては、一〇20で言うように、唯一の神と人間との中間的存在としての霊的存在、即ちデーモン(鬼神)が考えられていたのであって、それらは神ではない(ガラ四8)。かかる霊的存在はギリシャ、ローマの世界でもユダヤ教でも信じられていた。>(前掲書p159)

このように「神」と「主」とは同じく超越的存在ではあるが、8:6で対照的に存在論的違いを表している。これについては、<「父なる唯一の神(のみがいますのであるー訳者の敷衍)」以下の句は対句をなしており、多分当時の讃美歌の一節であろうと言われている。神は万物の根源であり、我々の仕うべき対象である。「父」は固有名詞同様に用いられているという者(バハマン)もあるが、そう解する必要はない。また、キリストは万物の創造に携わったお方(コロ一16)として、その先在のキリストの面が記され、次に、我々クリスチャンも彼によって造られたことが述べられ、新しい人間の創造者なる復活の主としての面も記されている(Ⅱコリ五17)。この、神を一切のものの根源・目標とする考え方は、その表現はストアにもあるが、キリスト教の神観とも一致するものとして採用されているのであろう。>(同上)

キリストが創造者といわれる意味は、天地万物創造における媒介者としてより、「新しい人間の創造」であるということが重要である。そしてそれも真の主体は「父なる神」にほかならない。

「拝一神教」ということに関して深津容伸氏は論文<「一神教をめぐって」― 旧約聖書,ユダヤ教,キリスト教 ー >(『基督教論集』第46号 抜刷 2003年3月20日発行)の中で次のように述べておられる。

<パウロは、「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」(コリント信徒への手紙Ⅰ8:4)と述べる。この唯一神教的発言に続く次の言葉は注目に値する。「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても」(同5節)と語り、異教徒たちが信じているように、神々はいるかもしれないという含みを残している。そしてさらに続く節では、「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。」(同6節)と述べる。唯一の神であるというのは、あくまでも「わたしたちにとっては」なのである。それは旧約からの伝統に沿って言えば、「神との契約の中にあるわたしたちにとっては」である。それは、わたしたちは複数のではなく、単一の神と契約を結んでいるという意味である。また、天地を創造した神は唯一(すなわち、他の神々は創造しなかった)であるということである。これは第二イザヤの神認識に一致していると言える。すなわち、パウロの神観もほぼ、多神教を背景とした拝一神教であったと言える。彼が異教を排撃しているのは偶像崇拝の故であり、十戒の第二戒に基づいてであり、これも第二イザヤと一致している。>(p18)

 

八木誠一氏は、下に引用したとおり、「フィリオクエ」論争については西方教会の方が聖書的だと言われるが、「父・神」を「究極者」にして「根源」とし、「子・キリスト」を「究極的」であるが「究極」ではなく「根源」ではないとする点では東方的とも言える。

 

<・・・こうして聖霊は「父と子から」つかわされるものとなる(この教義は、東方教会と西方教会分離の一原因となった。東方教会は聖霊が「父と子から」であることを否定したのである。しかし上のように考える限り、これを認めた西方教会の方が聖書と事柄とに即しているといえる)>(『キリストとイエス』〔講談社現代新書〕p136)

<新約聖書では、神・キリスト・聖霊は、統体的存在へと定められている世の、それぞれ存在の根源、統合への規定、統合の成就者として一面区別されるとともに、統体的存在の究極の根拠としてひとつなのである。このゆえに、ロゴスが「まことに神である」ことがいわれうるのである。しかし以下において簡単のため、誤解のない限りいちいち父なる神、子なる神、聖霊なる神とは言わずに、神・キリスト・聖霊ということにする。>(同、p137)

 

この「誤解」というのも、「父なる神、子なる神、聖霊なる神」という表記の方について言われるべきで、それを簡略にした表現が「神・キリスト・聖霊」だというのでは、まるで正統的(存在論的)三一論であって、八木氏の(場所論的)三一論とは合わないのではないだろうか? 

 

 

 

日本正教会の「信仰の手引」には、「フィリオケ」の問題について次のように書かれている。http://www.orthodoxjapan.jp/ http://www.orthodoxjapan.jp/pdf/new-tebiki.pdf 

<ローマ・カトリックは、聖神は父からだけでなく子からも出ると主張をし、「信経」に「子からも(ラテン語で「フィリオケ」と言う)」という言葉を付加しました。正教会はこの「フィリオケ」を否定します。なぜなら、三位一体の三つの『神格』を混合してしまうからです。聖神が「父と子」の両方から「出る」としたら、本源が二つになってしまい、それでも本源は一つだとするなら「父と子」の区別がつかなくなってしまいます。こうしてローマ・カトリックは神の三つの格を強調するよりも神の一つの本性、同一性の方を強調し、ひいては教会の在り方に対する考え方もその相違をなくそうとする傾向になり、ローマ法王の権威による教会統一が主張されることにも繋がったと言われます。正教会は、父のみが一つの本源であり、父と子と聖神は区別されながらしかも完全に一致していると主張します。だからこそ、個々の教会、個々の生命は大切であり且つ愛における一致が大切なのです。こうして「フィリオケ」はローマ・カトリックと正教会の大きな違いの一つになりました。>(52頁)

この「御父本源説」は東方教会の神学的特徴と言える。すなわち、山田晶氏が『アウグスティヌス講話』で次のように語っていることと符合する。

<ギリシアの教父たちによって把握され表現されたキリスト教の神は、ネオ・プラトニズムからその用語をかりながらも実質的にはそれと明確に区別された三位一体の神であったことに疑いはありませんが、それにもかかわらずその思考方法において、ネオ・プラトニズムとの親近性を有するように思われます。その親近性は、三つのヒュポスタシスの関係を考えるにあたって、まず御父を最も根源的なる神とし、そこから御子が生じ、御子を通して聖霊が発出するというように、父→子→聖霊と、三つのヒュポスタシスの発出の関係をいわば直線的に考える点にあらわれています。その関係はプロティノスの、一者→理性→魂という関係に似ています。もっとも、プロティノスにおいては、この直線の方向は下降の方向ですが、三位一体における直線の方向は下降ではありません(それを下降と取れば、アリウス派の解釈になります)。そこに両者のちがいがありますが、それにもかかわらず、三つのヒュポスタシスのうち、御父のヒュポスタシスが最も根源的であり、したがって御父は三つのヒュポスタシスという根源のなかで、いわば「根源の根源」と考えられる点で、プロティノスの一者との共通性を現わしてきます。これに対して、御子というヒュポスタシスは、われわれが「それを通して」御父に到るべき「道」となり、聖霊は、「それにおいて」われわれがその道をすすむことのできるいわば「光」のようなものとなります。つまり、われわれは聖霊において、御子の道を通って、御父に達するという仕方で、三位一体なる神は、われわれとの関係を持つことになります。この点にも、魂から理性へ、理性から一者への上昇を説くプロティノスの哲学との共通性がみとめられます。ところで、このようにしてわれわれとかかわりを持つ三位一体なる神との関係において、われわれの究極目的は、聖霊において御子を通して、根源の根源たる御父に達することになります。(中略)東方教会において、三つのヒュポスタシスの関係が、御父→御子→聖霊というように、いわば直線的な発出の線を辿るのに対して、西方教会において、三つのペルソナの関係は、御父と御子とから聖霊が発出するというように、いわば逆三角形のかたちを取ります。>

あるいはまた、上智大神学部教授の岩島忠彦氏が、「ギリシア語圏が父のみが源にこだわり続けた」と述べたこと(私信)や、矢内原忠雄氏が、アタナシウスはなお、「父は子より大なり」との主張を把持したのであった。三位一体論が完成されたのは、アウグスティヌスの不朽の名著『三位一体論』によるのであり、この書において、父と子と御霊との全く相等しい神性が論定されたのである。>(~「ヨハネ伝講義」No.56の「訣別遺訓に現れた三位一体論 一 三位一体論とは何か」)と述べていることも関連があるだろう。

さらにネメシェギ神父の前掲書にも次のような指摘がある。

ギリシアの教父たちは御子も聖霊も決して被造物ではなく、つくられたものではないことを極力主張し、「つくられざる者」であることをくり返し述べているが、父を子と聖霊の「原(?)」と呼び、子と聖霊を「原よりの者 (略)」と呼ぶのが常である。それに反して、ラテン教父たちは「原 causa」ということばを被造物に対する神の関係を表わすためにのみ用い、父と子と聖霊の「源 principium」と呼ぶのである。>(p179 注〔136〕)※その本文は次のとおり。「グレゴリウスは、原である父、直接にその原よりの者であるひとり子、直接に原よりの者であるひとり子を通して原より発出する者である聖霊を区別している。」(『父と子と聖霊』p158

※引用文中の「原(?)」の( )内はギリシャ語で、「アイティオン」、次の「原よりの者 (略)」の略した部分もギリシャ語で、「アイティアトン」と読める。

 

関西にある正教会の某司祭によると、<アタナシウスの言っているのは、あくまでも「神・父」と「神・子」の関係性を説明しているのであって、「神・子」は「神・父」から(永遠に)「生まれた」のであるから、「神・子」の源は「神・父」にある、という意味だととらえられます。「神性」という面では、父も子も聖神(聖霊)も、何ら優劣の差はありません。西方のキリスト教では、アウグスティヌスを重視すぎるようです。「御父と御子との関係が、・・・西方のアウグスティヌス側で完全に同等なものとされた」とおっしゃってますが、同等なのは、「神性」であって「関係」においてではありません。しかし、西のキリスト教では「関係」までもが同等と認識されているのでしょう。ですから、ヨーロッパのキリスト教では三位のヒュポスタシスの区別をあまり言わない傾向にあると言えます。>(~私信)とのこと。 

要するに、三位格(父、子、聖霊)が「神性」(=「神」としての本質)を共有しているという意味で「同質」であり、その点では上下・優劣は無いという意味で「同等」であると考える点では、東西両教会は一致しているが、「神性」ではなく三位格の「関係」においては、東方教会は「同等」とは認めず、西方教会はこちらも区別せずに「同等」と認めるという点で違いが出るということ。

こうして見ると三位格の何もかもが「同質」であり「同等」とする西方教会に比べたら、「関係」だけでも「同等」とはせず、御父を「源」とする東方教会の方が聖書的であると言える。

 

 

 

<聖書的な理解の面から言えば、神のウーシアは、神の名前の問題と重なると言えよう。つまり、神が自らを何と名乗るか、その神の名称が、さしあたり神のウーシアとして探求されることになるわけである(もちろん、ウーシアという語彙自体は、聖書に見いだされることのないものであることを忘れてはならない)。代表的なものを列挙すると以下のようになる。

 

「私は存在するものである」(γώ εμι ν)(Exod. 3:14)、「我らの神、主は唯一の主である」(Deut. 6:4)、「いける水の源(πηγή)であるわたし……」(Jer. 2:13 etc.、「あなたの神、主は焼き尽くす火であり」(Deut. 4:24)、「神は霊である」(John 4:24)、「命」(John 1:4 etc.)、「神は光であり」(1 John 1:5)、「神は愛」(1 John 4:8)、「善いもの」(Mark10:18)、「すべてのことは、父からわたしに任されています」(Matt. 11:27

 

これらのうちの多くが、従来、哲学的にであれ、非哲学的にであれ、ウーシアの意味を担う候補者として挙げられてきたものと重なる概念であることは興味深い(たとえば、「存在」、「一性」、「善」、「始源」、四元素のひとつ「火」など)。しかし、同時に従来のウーシア観では挙げられることのなかった「命」や「愛」、そして「父」といったものを、どうウーシアとつなげていくかという点はきわめてキリスト教的な論点であると思われる。

 

そして、以上のような神のウーシアと密接にかかわるのが、父なる神と子なるイエスの関係をめぐる語彙、すなわち「ホモウーシオス」(μοούσιος)という語である。「ホモウーシオス」は、普通、「同一実体の」(consubstantial)あるいは「同一本質の」(coessential)などと訳されるが、2 世紀のグノーシス派のキリスト教徒によって導入されたものと思われる。本来、ホモウーシオスとは、「同じウーシアをもつ」という意味であるが、用例を見ると、そこに含まれる「ウーシア」概念は物質的な意味をもつものと考えられる。したがって、その語の元来の大雑把な意味は、「同じ種類の素材から作られた」という程度の意味であったと想定しておいてよいだろう。>

 

(~土橋茂樹氏の論文「ウーシア論の展開として見た三位一体論 —— バシレイオス研究序説 ——」)

 

 

 

 

 

(その他のこと)

 「正教会の手引」についてhttp://www.orthodoxjapan.jp/pdf/new-tebiki.pdf

 

37頁に、次のように書かれています。

 

「神によって造られた」のであれば、神の子は「神」とは違う本質をもつことになってしまいます。しかし、ハリストスは、「神・父より生まれた」ものであり、実質的に「神の子」です。人間の子が人間であるように、「神の子」は「神」なのです。

 

ここには聖書的に根本的な誤解があります。そしてこのような理屈をトリニタリアンはよく使うのですが(小田切信男氏に対しては北森嘉蔵師や藤原藤男師がそうでした。また、最近のキリスト教界ではウィリアム・ウッド師が自著で、<「神の御子」キリストは、父なる神と同じ性質(神性)をもっておられました。人間の子供がその父親と同じ人間性をもつのと同様です。>(『[エホバの証人]の反三位一体論に答える』〔いのちのことば社〕p74)と述べています。しかし、人間や他の生き物は内包や外延を持つ一般概念であるのに対して、聖書に於ける「神」は固有名を持つ「唯一絶対」の存在すなわち「ヤハウェ」のみを指し、一般的「神」とは違います。ギリシャ神話や日本の記紀神話のような多神教では通用する比喩が聖書では通用しないということを正統主義者は気づいていないようです。従って「人間の子が人間であるように神の子は神だ」という理屈は、「ヤハウェの子はヤハウェだ」と言うに等しく、これは十戒やシェマーが示す一神教(ただしそれは「唯一神教」ではなく「拝一神教」)に矛盾するので聖書では通用しません(ちなみに申命記141の「ヤハウェの子」の「子」は注で<原文は「子ら」。>とあるように複数だが、この場合はイエスラエルの民について言われているので「神の子=ヤハウェの子」ということとは関係ない)。

※小田切信男著『福音論争とキリスト論』(待晨堂)p27~28、『キリスト論・ドイツの旅』(紀伊國屋書店)p222~223参照。

 

さらには、<「理解」を超えて「信じる」>という題で、実に独断的なことが書かれています。すなわち、<藉身も十字架も復活も昇天も再臨も、私たちの通常の物事の理解を超えていることです。しかしだからこそ、「信じる」必要があります。もちろん、何も知らないもの、を信じることはできません。盲目的に信じるのではなく、よく吟味した上で「信じる」ことが必要です。知識と理性は「信仰」に必要なものです。しかしながら、すべて人間の理屈に合わないからといって「受け入れられない」というのは、「信仰」から遠い態度です。>(p37)というわけです。盲信的に信じるのではなく、知性と理性が信仰に必要だと言うなら、「藉身も十字架も復活も昇天も再臨も」実存論的に解釈されて然りです。非神話化されて然りです。それを「信仰」ではないと言うなら、それこそ「盲信」にほかなりません。「信仰」には多様性が認められて然りです。正教会の教義も所詮は聖書の解釈であって、それを聖書の真理だと絶対化する根拠など認められません。教会が先か聖書が先かといった権威論争は不毛です。「我、信ず」で、ハプコ神父の「信仰とは、恒に個別的(パーソナル)なものです。(中略)共同体と一致は、必ず個別的(パーソナル)な信仰があって始まるものであり、その上に支えられています。」と言うなら、当然、共同体の信仰には個々人の違い,多様性が尊重されて然りであり、共同体が大きくなればなるほど、その一致は最大公約数的信仰告白として「イエス・キリスト」のみに収斂されてゆくべきです。それ以上のドグマ(特定の聖書解釈の絶対化)の承認は不要です。

 

 

「キリストの神」(ルカ9:20「神のキリスト」の逆)の有るところ我が霊魂もあり続けることができる。従って人の死滅は定めであって恐れるには当たらない。「天地は滅びても、わたしの言葉は残る」(マルコ13:31)とは、「わたし=イエス」が仲保者であることを考慮すれば、神と人との関係・交わりの現実が不滅であると解することもできるであろう。(大貫隆著『聖書の読み方』〔岩波新書〕p127~128参照)

真に恐れるべきは「魂も体もゲヘナで滅ぼすことのできる者」(マタイ10:28)である。
自分が死んでも、このおかたが永遠に生きておられるならそれで自分自身も生きることになるのだ。それこそ永遠の命である。

自分の消えゆく先はあくまでも絶対でなければなりません。創造主にして活ける神ヤハウェのふところでなければ個としてのかけがえなき絶対性を投身・放任することは出来ないのです。わが命をゆだねきるところが絶対なるもの、絶対なる場であってこそ救いとなるのです。その保証は常に現在の対神関係の中で感じる以外にはあり得ません。

宗教改革者ルターは、「もし私が地獄に堕ちても、そこにキリストがいらっしゃるならば、そこはわたしにとって天国である。」と述べたそうですが、キリスト中心主義のルーツは彼の十字架の神学にあり!といった感じです。私にとっては、「もし私が地獄に堕ちても、そこもまたキリストの父の御手の外であり得ぬ限り、そこはわたしにとって(天国ではないが)虚無ではない。」とでも言い換えられます。

以下、関根清三氏の言葉。
「我々が神と呼んでいるその絶対的なものが一体なにものなのか、それは我々には分かりません。分かりませんけれども、それが絶対的なものとしてあるということは、また他方気がついてみれば、はっきりしたことです。独断的な言い方しかできないことを私は恥じますけれども、しかし証言しておかなければならないことです。私自身、私を根底から生かしめている、その根拠としての絶対的なものを、あるとき経験し、そしてその同じ根拠によってあなたも、この人もあの人も生かされているということが見えました。この人は生かされていることに気がついている、あの人は気がついていない、そういったことまでよく見えました。我々の人生の様々な体験は相対的なもので夢幻かもしれません。しかし、このような絶対的な根拠によって生かされているという事実だけは、全く絶対的なことである。これは間違えようのないことである。何かそう思い込もうとして思っているのでもないし、そう信じたいから信じているのでもない。あるいは何か感覚がおかしくなってそういう幻を見ているのでもない。全く明晰判明にそのことが事実だということを体験したことがあります。もちろん体験は風化いたします。そのような体験も次第に薄れて行き、そしてまた新しく体験するということが、あるいはまた起こるかもしれません。しかしいずれにせよ、そのことは事実として体験されるのだということを、私は申しておきたいのです。恐らく旧約聖書の創造物語なども、こうしたリアリティをどうにかしてあの時代なりの言葉で描き取ろうとした、そういう試行錯誤の産物だろうと私は理解しています。(中略)ヤハウェ資料も、やはりその時代の子として時代の概念装置を用いてしか描けませんから、それによって書かれているわけですけれども、しかしそのことで表わしたかったことは、この我々を全く超えた神という存在があるのだ、我々を存在せしめている絶対的な根拠があるのだという、そのリアリティではないでしょうか。そして大事なのは、そのリアリティなのです。信仰者はしばしば、聖書を文字どおり一字一句信じることが信仰だと思って、現代の科学の知見に反する到底信じられないようなことも、信じようと無理をすることがあります。逆に信仰をもたない方は、聖書が現代人には信じられない荒唐無稽な話の寄せ集めだと思って、これを拒否します。しかしどちらも根本的に誤解であって、それは直解主義にすぎないと私は思います。それは、あくまでも時代の限界の中で語られた、相対的な人間の言葉にすぎない聖書の言葉を、絶対化してしまう、言わば偶像崇拝でしょう。偶像崇拝というのは相対的なものを絶対的なものと取り違えて崇拝することで、聖書自身が排撃するところです。その意味で、聖書の直解主義的な信仰は、聖書自身が否定していることだと言うべきでしょう。むしろ、そういった時代の限界は取っ払い、時代の概念装置はあくまで相対化し、それらを用いて作者が指し示したかった無制約的なリアリティの方を、解釈学的に解きほぐしていくこと、そちらの方に眼差しを向けて行くこと、それこそが聖書に対する正しい対し方だと思うのです。」(関根清三著『倫理の探索 聖書からのアプローチ』〔中公新書〕p7780
関根氏は、「独断的な言い方しかできないことを私は恥じます」と述べていられるが、宗教的実存的真理というものは客観的真理とは違って、滝沢克己氏が「私の言うことは独断的にみえるでしょう。神は人間の意志とは全く独立だというのだから。しかしその独断に耐えなければ、ほんとうの討論などというものもね、人間にはできないです。」と言ったとおり、そもそも「独断的」にしか言えないものでしょう。自分自身の対神関係については「証言」は出来ても「証明」することは出来ないのです。関根氏は、大事なことは「我々を存在せしめている絶対的な根拠があるのだという、そのリアリティ」だと言う。そしてその「超越的な事柄」を聖書は「象徴的な言葉で指し示している」のだと言う(同、p52)。
「偶像崇拝」が「相対的なものを絶対的なものと取り違えて崇拝すること」であるなら、正統主義キリスト教が「三位一体」という神学の産物を神聖化して、さも聖書の秘義であるかの如く絶対化し、これを認めない者に異端のレッテルを貼ることはまさしく偶像崇拝でしょう。

「わたしの神」とは、「わたし」が消え去ることにおいて最も「わたし」たり得ることのできる場所である。
「我」は、究極の人格である唯一絶対者の中に入滅して「無」となることによって、永遠の生命を得るのである。
つまりそれは人間同志が優劣を比較することによって位置付けられ限定された「我」としての生ではなく、その束縛から解放された本来の自由なる霊魂としての生である。すなわち自我もまた創造主なる神に帰するのだ。それが自我の最終的解決だ。。言わば、死んだ自分は神の中に消滅するのであり、消滅ではあっても恐れる必要がないのは、それが絶対者の中だから。神の中なれば消滅も無意味にはならず虚無にはならない。要は永遠の生命とは絶対者の中に消えること、消えることによって完全に神のものとなること。

「あなたは塵だから、塵に戻る」。(創世記3:19)

「私は裸で母の胎を出た、裸でかしこに帰ろう。ヤハウェが与え、ヤハウェが取り去りたもう、ヤハウェの名は賞め讃えられよ」。(ヨブ記1:21.34:14~15、創世記3:19参照)※「賞め讃えられよ」は直訳「祝福されよ」

「そのすべてが同じ場所に赴く。すべては塵からなり、すべては塵に帰る。」(コーヘレト書3:20.5:14~15、6:6参照)

「そして、塵はもと通りに地に戻り、霊はこれを与えた神に戻る。」(同、12:7)

そして終末はキリストの再臨によって来るが、その時は誰も知らない、天使も御子イエス自身さえも知らず、ただ御父なる神のみが知っておられる(マルコ13:32、マタイ24:36)と言われているところに、まさに御子の御父に対する従位・従属が明示されている。実に神の子イエス自身、父なる神のふところの中に自我を放棄した、それが「ケノーシス」であろう。しかし神の子であるがゆえに彼は消え去らなかった。復活し、父なる唯一の「神」とともに礼拝されるべき唯一の「主」となった。神の子の大冒険はロゴスとして神と共にあった(未完了過去)ところから肉と成り、十字架の死に至り、さらに陰府降下、そして復活、昇天(高挙)と連なる。繰り返すが、イエスを「救い主」という場合の「主」は「客体的主体」としての「主」であり、「基体的主体」はあくまでも天父なる神である。このお方がイエスを死者の中から起こしたのだ。ローマ10:9に示された「神がイエスを甦らせた(文字通りには「起した」)という宣言定式が最古の復活宣言定式であるといわれる(荒井献著『イエス・キリスト(上)三福音書による』〔講談社学術文庫〕p44

イエスの復活の主体はイエス自身ではなく父なる神御自身である。





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「永遠の命、それは唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになることです。」(ヨハネによる福音書 小林稔訳)

 

「それゆえに、あなたがたは互いを受け容れなさい。ちょうどキリストもまた、神の栄光のために、あなたがたを受け容れて下さったように。」(ローマ人への手紙15:7青野太潮訳)

 

「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものなのである。」(コリント人への第一の手紙3:23 青野太潮訳)

 

キリストの頭は神であるということを、あなたがたに知っていてほしい。」(同上 11:3 同訳)

 

「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(同上、15:28 同訳)

 

<パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている>(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』p5)

 

「一コリント一五章においては、キリストの支配がはっきりと神の主権の前で限定されたものとなっている。」(同上書 第一部 5章)

 

「事実、神は唯一人(ただひとり)、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(テモテへの第一の手紙2:5 保坂高殿訳)

 

 イエス・キリストの人格についての問に対する答は「神」とか「人」とかと答うべきではなく、ただ「神の子」と答うるのが聖書に基づく答であります。「神の子」は先在においても、受肉しても、死して甦って昇天しても、常に「神の子」と呼ばれて充分でありまして、それが聖書の語るイエス・キリストなのであります。>(小田切信男著『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト)- 北森嘉蔵教授との討議を兼ねて- 』〔待晨堂書店〕p15)

 

<キリスト・イエスはいかなる意味においても自らを「神」として物語り且つ示しはしなかったのであります。たとえ神にひとしいとまで語られても、神への従属的地位を外す事がなかったのであります。>(小田切信男著『福音論争とキリスト論』p145)

 

「万物がキリストに帰一して、然る後に神に帰一することが、救済の完成でありますから、キリストの業の終る所がある訳であります。そこにキリストの仲保者性の限界があると言えるでありましょう。」

(同上、p215)

 

<神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は「イエス・キリストのみが――全知なる神である」となって「父なる神」を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。>(同上、p263)

 

神はやはり唯一の神――父なる神――であっても子なる神とも、また純粋の霊だけの神とも語られません。要するに三位一体論そのものが、神を客観的にあげつらう論理として既に思い上った論理であります。そしてこれは、イエスも使徒も語らなかった神観であり、明らかに異教化したものと言えましょう。キリスト教界はこの三一神観という信条・教理についても福音の光で検討を加え、多神化しようとするキリスト教の異教化を徹底的に排除すべきではありますまいか。>(同上、p366)