コヘレトの知恵とイエスの神

マスメディアは「独居」を否定的な意味にばかり伝える。独居老人の「セルフ・ネグレクト」といった暗い面ばかりを映し出す。しかし一方では「独り暮らし」が良いと思う人々の現実もある。確かに高齢者や身体に問題を抱える人々にとって「独居」には危険が伴う。しかしそのリスクを補うことが出来れば「独り」の方が精神的には良い場合もある。精神面での「孤立」を防ぐ一つの提案として私は「神を有つ」ということを挙げたい。その場合の「神」は宗教的礼拝の対象としての圧迫感のあるそれではなく、日本人の便宜主義的宗教性にも馴染むであろう「つかず離れず」といった無理のない関係の対象である。そのテキストとして旧約聖書のコヘレト書に注目する。

 

岩波書店版旧約聖書の「コーヘレト書」の解説で勝村弘也氏は、「あらゆる意味での世界の虚無性と人生の不条理に直面しながらもそれに屈することのなかったコーヘレトの知恵とは何であったのか。それはどこに根を張っているのか。これらは究明すべき課題である。」と述べておられる。

私はその「究明」の試みの一端として、八木誠一氏が語っておられる「イエスの神」を参考にしてコーヘレト書を読んでみたいと思う。

私見ではコーヘレト(以下、私は「コヘレト」と表記する)に於ける対神関係は、つかず離れずといった感じのように思われる。それはコヘレトの「神」が人格的存在としての面だけではなく、八木氏が示すところのイエスの「神」と通じる無的な面、非人格的な面があるからだろう。

ところで関根清三氏はコヘレトに対して厳しい見方をしておられる(関根氏は「コーヘレス」と表記している)。すなわちコヘレトをニヒリストと言いエゴイズムをも脱け出せなかったと言うのだ(『倫理の探索』〔中公新書〕p19、27参照)。

このようなコヘレト観は関根氏が「倫理」を前提として聖書を読み解いておられることの限界を表わしているのではないだろうか?

関根氏は八木氏の言説を参考にしておられますが、その八木氏はイエスの神について次のようなことを述べておられる。

イエスが神について語るとき、そこには宇宙的終末論はないが、不条理や個人の死への暗示があり、ここで生は確かに前面に出てはいるが、究極的には生が死に勝利するという終末論的見通し(一コリント十五・二十六)はない。(中略)イエスの神とは何なのか。それは単に人間を生かし、愛し、保護する神ではないのだ。イエスの神は生と死、善と悪、意味と無意味の対立の突破である。ここで意味と無意味というのは、終末の到来と神の国の成就は歴史に究極の意味を保証する原理だからである。だから終末論の相対化は、意味と無意味の対立の突破なのである。言い換えれば、神の働きのなかに置かれた現実とは、そこには何か究極的に「なくてはならないもの」(善、生、意味)も、「あってはならないもの」(悪、死、無意味)もないような世界なのである。いわばそれは無限の開けなのだ。もしこのような理解があまりにも禅的だと思うひとは、どうか従来のイエス理解の方が一面的に生や意味を立てる方向(神の国中心主義、換言すればキリスト中心主義)に偏していたのではないかと、問い直していただきたい。こう考えてもよい。意味の次元の絶対化は、意味の実現を求めて焦り、それを妨げる敵を滅ぼそうと努め、ついには意味の実現に絶望するニヒルをもたらし得るのである。ここに意味の次元はなおすべてをつつむ立場ではないことが現れている。従来のキリスト教神学は、その終末的構造が示すように、「なくてはならないもの」が「あってはならないもの」に究極的に打ち勝つことを説いてきた。それが救済史の意味であり、すなわち神の歴史支配の意味である。それが「希望」であり「信仰」の内容であった。しかしそれは我々の生および歴史に関する現実的認識とは矛盾する。この世の実際はそうはなっていない。それゆえ「神義論」(神がありながら何故この世に悪や死や不条理が存在するか)が問われもするし、非キリスト者からは「信仰」とは要するに幻想の別名ではないかと言われることになるのだ。もちろん私は、生、意味、条理、善といったものがなくてもいい、と言うつもりはない。いうまでもなく、これらは絶えず求められ、守られ、実現されなければならない。私が言いたいのは、これらといえども絶対ではない、ということである。というよりむしろ、イエスが神の働きに包まれた現実のなかに見たような「無限の開け」に立ったとき、はじめて「神の支配」が、換言すれば我々がいま・ここでそのつどなすべき「善」が見えてくる、ということである。というのは、生や意味や条理をいきなり絶対化するとき、その主張のなかにはいつのまにかエゴが忍びこみ、善や意味の仮面をつけて、ひとびとを、また、なによりも本人自身を欺くからである。(中略)このようなエゴを滅ぼし、あらためて立てる「深み」の次元があり、ここで目覚めるとき、生きとし生けるものすべての共生を願う、いわばいのちの「願」が成り立ってくる。倫理も終末論(善の究極的勝利)もここに座を持っているといえるだろう。しかしながら、人間のエゴイズムはなおこの願の中にひそかに忍びこみ、この人類共通の願という仮面をつけて自分を自分たちの仲間との絶対化、中心化、一方的優越性の主張をなしうるのである。しかし、深みの次元には、この深みを突破したもうひとつ「深い」次元がある。そこではもはや「こうでなくてはならない、こうであってはならない」という絶対的な規定はなにもない。ではここはニヒルと等しいのだろうか。確かにニヒルとは違うところがある。それは、この「絶対の開け」のなかで「共生の願」が「人為ではない自然」として成り立ってくるからだ。それは論理的必然でもなく、事柄上の必然性を証示することもできないが、しかしそれは事実なのである。(中略)

つまり深みの次元にはなお二つのものが区別される、ということである。それは神の支配=キリストの働きの次元(共生、救済、意味、などをたてる)と、神の次元である。後者は前者を超えてこれを成り立たせるのである。言い換えれば、我々は共生の願の次元の奥、すなわち生死をはなれた次元に目覚めることができるのである。そこから意味実現を求める行が自然に成り立つのであって、こうして大義名分を仮面とするエゴ、意味実現に絶望するニヒルが断たれるのである。なおひとつ注意を引く点は、「ひとりでに」そうなるなら、それは神の働きとは見えないはずだ、ということである。この見解は「無神論」と解りあえるものだ。神がきて、仕事をして、足跡を消して立ち去ってしまった、というのはこのことなのである。(中略)見通しの効かない空間と時間のなかで、なお共生を求めて生きている、すくなくとも生きようとして努力している、というのが宗教者の実態であろう。宗教はそれが「キリスト」、「報身」の働きに担われていることを知っている。換言すればそれはなお究極ではない。「御国を来たらせたまえ。されど我らのこころにあらず、みこころをなさせたまえ」という祈りが「神」に向けられるのである(マタイ六・十参照)。こう祈るとき、我々は「神の子」であり、神の働きの場に立っている(マタイ五・四十五参照)。我々が「みこころ」の何たるかを知りつくすことはない。この祈りは一切の現実へのラディカルな否定であり、受容である。換言すれば、我々は意味の次元を突破した無限の開けに立つとき、生と意味だけではなく、死と不条理と無意味とを受容するのである。そのとき逆説的に万物共生の願が成り立ってくる。この立場は、客観的事実の方向へと伸びる線と、主体的自覚の方向へと内に収まる線との延長線が逆説的に交わる点である。この意味で神は世界と歴史、生命と実存の根底にあるミステリーというよりほかはないのだ。>(「講演Ⅱ 神」大乗禅vol.13 ※イエスの終末論的言句として、マタイ13:24~30(、36~)、マルコ9:1、13:35、ルカ17:24、26~29が挙げられている。また、イエスが神について語る箇所としては、マタイ5:44~45が挙げられている。ただし44節「迫害するもののために祈れ」はイエスの言葉ではないとみなしている。「絶対の開け」の中で「共生の願」が「人為ではない自然」として成り立ってくることの箇所として挙げられているのはマルコ4:26~29。

※私の言う「キリスト止まり」の問題というのは、言い換えれば上記で言われている「意味の次元=キリスト中心主義」止まりの問題なのである!「神の次元」まで及ばないといけないのにそれを阻害するものがイエス・キリストを特別啓示とみなす場合の「啓示」理解である。この「啓示」は「体現」としての実体的意味ではなく(それでは「現人神」になってしまう!)、「指示」としての作用的意味として捉え直して然り。イエス自身も神信仰者なのであり、「神」の啓示者というより「神関係」の啓示者である。ロマ3:22やガラテヤ2:16などで議論ある主格的属格か対格的属格かということも、主格的属格ととって何ら問題なしということになる。

 

八木氏は『キリスト教は信じうるか』(講談社現代新書)で「神」を「統合存在の根柢」(※上記引用文で使われている「根底」ではない。)と述べ、その「統合存在の根柢」には区別があるとして、<統合への規定(=ロゴス=神の支配=キリスト)=存在するものの「ある方」の定め=存在するもの同志の関係にかかわる定め=法則や構造の根拠>と、<統合の根柢(=神)=統合への規定の究極の根源=統合へと定められた存在が「ある」ということの根源、根拠=統合存在の究極の根柢>の二つを記している(p178183187195197201)。また、『神はどこで見出されるか』(三一書房)では「統合化への超越者の働き、その主体(神)こそが究極の主体(無的な主体)」(p84)と述べている。

そして、<かつて「神」は、ヘブル的・キリスト教的伝統の中で、存在の根源、行為の根拠、意味の保障であった。人を救い、正義と愛をもって歴史を支配する「人格」神であった。しかし(中略)こういう「神」は現代人の現実感覚また歴史経験から縁遠くなってしまった。>(p14)と指摘し、その理由を述べている。

『キリスト教は信じうるか』に戻って、八木氏は、「神関係というものは、単純素朴にしか成り立たない」、「単純素朴に信じるとき、神はある」と言う(p203)。これは滝沢克己氏が、「私の言うことは独断的にみえるでしょう。神は人間の意志とは全く独立だというのだから。しかしその独断に耐えなければ、ほんとうの討論などというものもね、人間にはできないです。」と述べたようなことであって、宗教的真理は科学的証明を無用とする。「純粋直観」・・・「観念化以前の対象との出会い」(p81)というやつだ。

ただ、単純素朴に信じることさえ出来ない人間が多いわけなので、やはり神信仰はある種の選びによるものであって、その意味では「救い」も万人普遍に成るとは言えないだろう。人によって「救い」の意味にも違いが生まれる。

自分の場合は精神不安定が最大の人生の問題なので、これを解決してくれる究極の答えである「神」の実在を感じ得ること自体が「救い」だ。出エジプト3:14「わたしはある(なる)、わたしがある(なる)という者だ」から示されることは、聖書的「神」はただ「ある(なる)」ことに於いて意義があるのであり、人間に対して何かしてくれるかどうかということとは関係ないということである。そこが御利益宗教の相対的「神」とは根本的に異なる絶対的「神」・活ける「神」の特徴である。そして信仰も、その「神」の存在・働きそれ自体を救いとするものであって然り。であれば「神義論」は生じない。イエスの「アッバ」なる「神」とはそのような存在であったと思う。存在すること自体に意義あり。その「アッバ」なる「神」との関係に於いて活かされていること自体に救いあり・・・という信仰の現実である。つまり存在し活きていること自体で絶対なる唯一の神と関係している個人も、その活きて在ること自体に命の絶対性・尊厳性を与えられているということ。「神は存在ではなく働きである」(長谷川〔間瀬〕恵美さんの講演録「宗教と文学―遠藤周作の文学における宗教的視点」の「終わりに」)ではなく、「神は存在でもあり働きでもある」のです。それは人格的な面と非人格的な面との両面で「神」を捉えることともつながります。そのように考える方が少なくとも聖書的であると私は思います。ところで、上記引用の八木氏の「神」についての論述で重要な点は、「意味」あることは実際に人間にとってたいせつではあるが、それが「キリスト」の次元から言われるならイデオロギー化してニヒリズムやエゴイズムを招来せしめるおそれがあり、さらに深い「神」の次元から言われてこそ真に「意味」あるということだ。倫理は「キリスト」の次元である。教会の神学もバルト神学に象徴されるように「キリスト」中心主義であり、「神の支配=キリストの働きの次元(共生、救済、意味、などをたてる)」のだ。八木氏が「従来のキリスト教神学は、その終末的構造が示すように、「なくてはならないもの」が「あってはならないもの」に究極的に打ち勝つことを説いてきた。たとえそれが「歴史に関する現実的認識と矛盾」して<「神義論」(神がありながら何故この世に悪や死や不条理が存在するか)が問われ」ても、それでも大多数のキリスト教徒の心情は、この「意味の次元」にとどまり、この次元より深い次元など思い及ばない。理解出来ないのだ。「キリストの働きの次元」こそ一般のキリスト教徒にとっての究極の信仰の世界であって、「神の次元」まで深まり、そこから意味実現を求めるということにはなり難い現実がある。そしてそれは無理もない。身体をもって生活している社会的現実がそのような境地に至り得るような状況になっていないからだ。だから関根清三氏でさえ旧約学者ではありながら「キリストの働きの次元」からものを言っている。つまり氏は聖書から示される倫理を語り、神義論を語り、その究極的言説として贖罪を語るのだ。彼の専門である第二イザヤの預言はイエス・キリストと結びついている。そのような関根氏がコヘレトについての見方が浅いとしても不思議なことではない。

<このような日常のささやかな快楽において、コーヘレスはかろうじてこの隠れた神と出会っているのです。ただここにおいて、人生の空しさは微かではあるが画然と満たされているというのが、『コーヘレス書』全編の結論のように思われるのです。>(p23)とのことである。そしてコーヘレス(=コヘレト)の言う「空」(hebel)の正体を「本来あるべき他者連関から疎外された生命の枯渇の感情」であると断じて、「実際コーヘレスは終始、他者と出会っていないのです。」と言うのだ(前掲書p24)。

しかしコヘレトは、「神」という絶対なる「他者」に出会っているのだ!このことを見落としてはならない。実際という言葉は今の世の現実に向けて用いるべきだ。実際、多くの人々が人間関係に苦しんでいる。岸田秀氏は、「現代においては自我の安定が崩れるのは他者との関係においてです。」と指摘している(『希望の原理』〔青土社〕p93)。関根氏は社会の底辺の怨憎会苦を経験したことはないだろう。そういうプチブルの大学教授などが「出会い」だの「共生」だのといったキレイゴトを簡単に語るのだ。その点では八木氏も似たようなものかも知れない。しかし八木氏は思索の卓越した深さによってそのインテリの欠点を補い得て余りある。

コヘレトの知恵、コヘレトにとっての「神」は、「意味ー無意味」、「条理ー不条理」の二項対立を超える、すなわち「行為と帰趨との連関」を疑い、これを超えるものである。だからこそ彼は、一方で、<人の子の結末と獣の結末とは同じ結末。〔中略〕まことに全ては空しい。〔中略〕全てのものは塵から出て全てのものは塵に帰る。(『コーヘレス書』三章1920節)>(関根氏前掲書p17)と消極的・否定的なことを語りながらも、いっぽうでは、<「わたしは知った、人間には生きている間に楽しみ喜ぶ以外、他に良いことはない、と。じっさい人が皆、食べかつ飲みかつ労苦の中に良きことを見出すならば、それこそ神の賜物だ。〔中略〕神がこのようなことをされたのだ。(『コーヘレス書』三章1214節。他に三章22節、五章18節、八章15節、九章7節)>(同、p2223)とか、

「食べて飲み、自分の労苦に幸せを見てとること、/これ以外に人の幸せはない。/私は見きわめた、これもまた神の手による、と。」(2章24節~『旧約聖書XⅢ ルツ記 雅歌 コーヘレト書 哀歌 エステル記』〔岩波書店〕)と、積極的・肯定的にも語ることが出来たのだ。ただし、コヘレトが関係している「神」は常に「エロヒーム」で表され、「彼はイスラエルの神ヤハウェについては一語も語らない。」(同、p211 「コーヘレト書 解説」〔勝村弘也氏〕)。しかし、その「神」はヤハウェと別存在ではないと私は思う。そしてそのコヘレトの「神」との関わりは、「不即不離」・・・つかず離れずであると思われ、個人的にはとても参考になる。というのは、精神衛生上、「人格神」との関係はあまり親密でも圧迫感が生じてよくないからだ。さりとて離れすぎても信仰にはならない。だから、つかず離れずの関係がよい。美輪明宏さんは対人関係は「腹六分」がよいと言われるが、対神関係でもその程度がよいと思う。少なくとも私の場合であるが・・・。私の精神不安定者としての最大の関心事は「神」(・・・という漢字表記は人名にもあるから好ましくなくGodとかヤハウェと呼ぶ)であり、それは「絶対他者」であってこそ不安定なる精神を安定に近づける最も有力な支えであるが、その「神」との交わりは日々の生活現実から離れてはあり得ない。神関係があっても飯は食えないと言われれば「神」よりも大切なものが支えとなって然りのようだがそれは違う。飯を食うためには収入を得るための労働が必要であり、その活力源が「神」なのだ。そしてコヘレトのように、日々の生活の中でささやかな楽しみを「神の賜物」とし、それを与えて下さる「神の手」を実感しつつ日々を感謝して生きてゆければそれでよい。あとは死んでわが身は滅びても、わが精神の支えにして霊魂の源である「父=神」に帰ってゆくのだから平安がある。勝村氏は「コーヘレトは、人間に何かを与える神についてしばしば語る。しかし人間には神の意思が結局は知りえないのだとすると、感謝のような仕方での神への応答は不可能である。神と人間との人格的な交わりはここには成立しない。だとすると伝統的な意味でコーヘレトが神を信じているとは言えまい。」(同、p212)と述べておられるが、「感謝のような仕方での神への応答は可能である」と私は思う。それが「不即不離」の妙というものだ。感謝と言っても教会などがやっているように、ことさらに声をあげて感謝の祈りをしたり讃美歌を歌ったりすることに表されるとは限らない。言わば個人の中での無意識的な沈黙の感謝とか礼拝というものもあり得る。コヘレトには表立った賛美や感謝の言葉はあまり見られないかもしれないが、勝村氏も<コーヘレトは「神への畏れ」について語ることすら出来た(三14、五6、七18等)。それが伝統的な意味での敬虔を意味するのではないとしても、彼が或る種の宗教性にとどまっている証拠と見ることは出来る。>と指摘しているとおり(同)、彼の心の奥には日々のささやかな幸せを与え給う創造主への感謝と賛美が充ちていたと思う。

救いとはすでに実現している神関係の原事実である(・・・滝沢氏の如く必ずしも「インマヌエル」ではない。「われら」ではなく何よりも「われと共に」である。ただしその「共に」はべったりではなく、つかず離れずの自由な関係。その、「つかず離れず」というのは「遠くて近い神」〔ブルトマン〕に対応する)。聖書が示す「神」は存在すること自体が救いとなるお方であり、存在するだけで何かしないなら意味がないということではない。神名「ヤハウェ」(=彼はあらしめる)の由来は「ハーヤー」(=ある,なる)という動詞であり、在ることに於いて救いと成るのである。だから終末に義人と悪人とを振り分けて、義人には天国での永遠の至福を、悪人には地獄での永遠の罰を与えるということは黙示思想の神話である。救いと言えば一般に前者のようなことがイメージされるが、天国(=神の国)とは「神」との関係であり、永遠に「神」の支配(といっても抑圧的な意味ではない)を受けることであり、特定の領域ではない。上記の八木氏の指摘のとおり、イエスの「神」もコヘレトの「神」も、「働き」の面では「生と死、善と悪、意味と無意味の対立の突破」であり、だからこそ「空」なる現実の中でも信仰は揺るがないのだ。コヘレトの言う「空」(hebel)は、「世界の事物事象の無目的で無意味なこと、したがって人間の存在も行為も特別な意義をもたないこと」であり、その最高表現が「空の空」という「一種の世界認識」であり、「新共同訳(「なんという空しさ」)にみられるような世界の無常を詠嘆しているのではない」という(同、「補注 用語解説」p3 の「くう」の項参照)。つまり「空の空」という表現は価値中立的概念であるかのようだが、「空」には、同じ「むなしい」と読む「虚」としての否定的,消極的意味合いを感じさせる。だから関根氏は、<「空」とは「益になるものがない」(『コーヘレス書』二章11節)の謂であり、押しなべて達成すべき「目的」が存在しないという認識にほかならない(中略)私見によればコーヘレスは語の十全な意味でニヒリストだという結論になるのです。>と述べているのだろう(関根氏前掲書p19)。自分もコヘレトの「空」の意味としては「虚無」(nihil)に近いと感じる。そこには応報倫理の破れの感覚があり、勝村氏の言う「行為と帰趨との連関」、要するに「善因善果悪因悪果」の法則が成り立たない不条理性の認識である。しかしそれゆえにコヘレトを「ニヒリスト」と呼べるとは思わない。勝村氏も「コーヘレトが自己の省察から虚無主義的な結論を引き出した形跡は見当たらない。彼があまりにも多くの世界の不条理を前にして、伝統的な意味での神による世界統治を信じていないとしても、世界が美しく造られてあることは認識されている(三11)」と言う(同、p212 「コーヘレト書 解説」)。「伝統的な意味での神による世界統治」すなわち「行為と帰趨の連関」とか「因果応報」が成り立つような意味での「統治」は否定されてはいても、「伝統的な意味での神」と無関係な全く別の「神」を観ているとは思わない。それなら旧約聖書に収められている意味も無い。

実に神信仰とニヒリズムとは対極をなしている。絶対者としての「神」の存在がそれ自体で救いであるという意味は、現実世界がその「神」の支配下にある故に無意味ではないということ、「虚無」ではないということである。まさに「虚無」こそが絶望であり滅びであり地獄なのだ!上記の八木誠一氏の「講演Ⅱ 神」大乗禅vol.13」からの引用で、倫理や終末論が座を持つ「深み」・・・これを突破したところの、もうひとつ「深い」次元は「ニヒル」ではない、と言われていることを想起すべし。コヘレトはその、もうひとつ「深い」次元にふれていると思われる。

関根氏によれば、コヘレトは「伝統的な応報の神の存在は、これを否定」し「それに代わる新しい神」を模索したのだが(関根氏前掲書p22)、その「新しい神」は決して創造主ヤハウェと無関係ではない。直接そう言われないところにコヘレトの神関係の特徴である「不即不離=つかず離れず」という間合いの妙がある。それは非神格的面も含まれるという点で、八木氏のいうところの「イエスの神」に通じていると思う。同じく非人格的・抽象的神観であり関根氏にとっての「神」理解でもある「私を根底から生かしめている、その根拠としての絶対的なもの」(同、p77)とは少し違うような気がする。確かにその「神」も「応報の神」ではないだろう。しかし、「ただ無制約的・絶対的なだけでは、この相対的な我々、この世の相対物に制約されている我々は、どう関わっていいか分かりません。そこで、具体的なこの世の象徴によってその存在が指し示される必要があります。その一つの有効な象徴が十字架による贖いの死という、神の愛と義の両側面を照らし出している象徴なのだということができるでしょう。」(同、p102)と言われるとき、なぜ関根氏は「十字架」にこだわるのかという問いが生じてくる。そこに「キリストの働きの次元」を超えて「神の次元」にまで深まっていない関根氏の「倫理学」の限界をみる。

たしかに八木氏も<神というのは、「統合への規定」が「神の支配」だと言われる、その神だということ、イエスが父とよんだ神であってそれ以外のものではない>(『キリスト教は信じうるか』p206)と述べている。しかし、イエスという「神関係」自覚の媒体という意味での啓示は、神体現としての現人神(=「真に神にして真に人」のカルケドン信条的)キリスト論とは根本的に異なる。イエスの「神関係」啓示の特殊性は、滝沢克己氏の「原事実」のような歴史的現実から遊離した抽象論と区別された、歴史的社会的現実に足を着けた神信仰であるに伴う自己限定であり、己が負うべき十字架である。原理的には「イエス」なしでも「神」を知ることは出来る。しかし現実はそうではない。「理」と「事」との区別がある。しかし「啓示」に関しては、このような言い方にも問題はある。

<バルトの「原理的にに可能であるが、事実的には不可能である」という言明は議論の余地がある。滝沢もそこを衝いて詭弁  であるといっている。(『仏教とキリスト教』、前引書、ニ八三頁)  「原理的には可能」という言い方は、自然啓示を認めるプロテスタ  ント神学者エミール・ブルンナーに対し「否!」を言ったバルトには考えられないことのようであるが、実はまさにその論争でいわれたことである。>(~松岡由香子さんの論文<「滝沢克己のインマヌエル論」批判>の注〔10〕)http://www.eonet.ne.jp/~sansuian/com/takizawa.html

神関係の自覚媒体は基本的に旧約聖書と直観だけで充分だが、聖書的神信仰が民族・共同体レベルから個々人のレベルに具現されるためにヘレニズムないしは新約聖書の証言が必要であった。深津容伸氏が指摘されるところの「唯一神教」がギリシャ的思考なしには成り立ち得なかったこととも通じる(~論文『一神教をめぐって-旧約聖書,ユダヤ教,キリスト教-』(『基督教論集』第46号抜刷 2003年3月20日発行 青山学院大学同窓会基督教学会)。古代イスラエルの思考については、関根正雄氏がオルブライト説を支持し、prelogicalではなくempirico-logicalであり、ギリシャ人の形式論理の段階に達していなかった旨を述べておられる(~『古代イスラエルの思想』〔講談社学術文庫〕p89、165~166参照)が、このパラダイムについてはヘレニズムが浸透していたイエスの時代、かなり変容していたはずだが、当時のインテリとみられている使徒パウロに至ってもなお「拝一神教」であったようだ。神関係の媒体として聖書は不可欠だが、その聖書は教会組織によって成立したものではない。「教会がわれわれと神との間に立つのではないように、聖書も神とわれわれの間に立つのではない。イエス・キリストが聖書を通してわれわれのところに来るのではない。聖書は神と直接に出会った人々が彼らに語りかけられた神の言葉を解釈し、報告した記録である。教会が聖書を生み出したのではない。教会は聖書の正典の範囲を定めただけである。今日、われわれもイエス・キリストと直接に出会うが、聖書の証言によって導かれるのでない限り、われわれはイエス・キリストを正しく理解することができない。」(~佐栁文男氏の論文<H.リチャード・ニーバーにおける「信仰の神学」>) http://ci.nii.ac.jp/naid/110004728047 

とにかく、人生の意味とか目的といった次元で「神」を存在根拠などとみなしても精神の安定は得られない。一時的には得てもすぐに崩れる。真の安定は不安定との対立を超えたところに見出されなければならない。それは先ず、「意味」とか「存在根拠」とか「安定」といった観念にとらわれない自由な境地に達することなのだ。

「永遠の命、それは唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになることです。」(ヨハネによる福音書 小林稔訳)

 

「それゆえに、あなたがたは互いを受け容れなさい。ちょうどキリストもまた、神の栄光のために、あなたがたを受け容れて下さったように。」(ローマ人への手紙15:7青野太潮訳)

 

「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものなのである。」(コリント人への第一の手紙3:23 青野太潮訳)

 

キリストの頭は神であるということを、あなたがたに知っていてほしい。」(同上 11:3 同訳)

 

「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(同上、15:28 同訳)

 

<パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている>(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』p5)

 

「一コリント一五章においては、キリストの支配がはっきりと神の主権の前で限定されたものとなっている。」(同上書 第一部 5章)

 

「事実、神は唯一人(ただひとり)、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(テモテへの第一の手紙2:5 保坂高殿訳)

 

 イエス・キリストの人格についての問に対する答は「神」とか「人」とかと答うべきではなく、ただ「神の子」と答うるのが聖書に基づく答であります。「神の子」は先在においても、受肉しても、死して甦って昇天しても、常に「神の子」と呼ばれて充分でありまして、それが聖書の語るイエス・キリストなのであります。>(小田切信男著『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト)- 北森嘉蔵教授との討議を兼ねて- 』〔待晨堂書店〕p15)

 

<キリスト・イエスはいかなる意味においても自らを「神」として物語り且つ示しはしなかったのであります。たとえ神にひとしいとまで語られても、神への従属的地位を外す事がなかったのであります。>(小田切信男著『福音論争とキリスト論』p145)

 

「万物がキリストに帰一して、然る後に神に帰一することが、救済の完成でありますから、キリストの業の終る所がある訳であります。そこにキリストの仲保者性の限界があると言えるでありましょう。」

(同上、p215)

 

<神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は「イエス・キリストのみが――全知なる神である」となって「父なる神」を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。>(同上、p263)

 

神はやはり唯一の神――父なる神――であっても子なる神とも、また純粋の霊だけの神とも語られません。要するに三位一体論そのものが、神を客観的にあげつらう論理として既に思い上った論理であります。そしてこれは、イエスも使徒も語らなかった神観であり、明らかに異教化したものと言えましょう。キリスト教界はこの三一神観という信条・教理についても福音の光で検討を加え、多神化しようとするキリスト教の異教化を徹底的に排除すべきではありますまいか。>(同上、p366)