2.(続)聖書の「三・一」と教義の「三位一体」との区別

 

まず、宗教学者の島田裕己氏の言葉を引用します(~『キリスト教入門』〔扶桑社新書〕)。

 

<キリスト教が本当に一神教なのか、それを疑わせるものが「三位一体」の教義です。(中略)神は、一つの「実体」とされます。ラテン語では、substantiaと呼ばれます。一方、父なる神、イエス・キリスト、聖霊は三つの「位格」であるとされます。この位格は、ラテン語ではpersonaと呼ばれます。本質は一つなのだけれども、現れ方が三つ異なるというわけです。ただし、初期のキリスト教会では、こうした考え方はとられていませんでした。福音書にも出てきません。新約聖書全体を見回しても、三位一体の教義についてはまったくふれられていません。三位一体(Trinitas)ということばを作ったのは、2世紀末のカルタゴの教父であったテルトゥリアヌスです。(中略)その際に、根拠として用いられたのが、「ヨハネによる福音書」でした。(中略)さらに、4世紀から5世紀にかけて活躍したキリスト教の教父の代表、アウグスティヌスは、『三位一体論』という書物を著しました。アウグスティヌスはそのなかで、三位一体を構成する三者は独立した相をなしつつ、一体として働き、その本質において同一であるという考えを示しました。(中略)イエスが神の子とされている以上、イエスと父なる神との関係、さらにはイエスの受胎に結びついた聖霊との関係を理論化していかなければなりませんでした。聖書のなかにあった矛盾を解消するために、三位一体の教義が生み出されたとも言えます。(中略)本来つであるはずの神が異なるつの姿をとるということは、キリスト教を多神教の方向へむかわせていく要因となっていきます。しかも、この世界を創造したとはいうものの、直接世界に働きかけてこない父なる神は、後景に退いていかざるを得ません。それに代わって前面に出てきたのがイエス・キリストです。>(p100103

 

聖書にはみられず、初期のキリスト教でも言われていなかった「三位一体」は紀元4世紀のニカイア・コンスタンティノポリス信条の制定によって成立しました。ニカイア信条は325年、コンスタンティノポリス信条は381年にそれぞれの公会議で成立。後者は前者を拡充され、聖霊論が加わりました。このニカ・コン信条の制定に伴って多様であったキリスト論が統一されてゆき「正統」とされるに至りました。よく混同されるので明確に区別する必要がありますが、聖書に示されている「父なる神」と「イエス・キリスト」と「聖霊」との関係は、そのまま教会教義の「三位一体」ではありません。これに関して以下のコメントが参考になります。「ニケアにおいて、三位一体問題は、解決を見たというより、措定されたのだった。神の本質(ウーシア)は同一であると主張されたが、その存在の属性(ヒュポスタシス)の独立もまた肯定された。こうして神的実体は同一であり、位格は分解されないといわれる。以上の哲学的前提は、くりかえし何度も模様替えされてきたものの、根本的解決はついぞされなかったが、そこから、多くの問題が発生した。『唯一の』三位一体定式――<父>と<子>と<聖霊>――と理解されているものは、位相互間の関係であり、いわゆる内在的<三位一体である。この関係は、いわゆる経綸的<三位一体にたいして、認識論上の優位、さらには存在論上の優位をさえ与えられている――もっとも、聖書の素材はそれとは反対の姿、すなわち創造と契約締結と派遣と救済と聖化という歴史的旅程を示しているけれども。」(『Interpretation 日本版 1991.11 No.12』〔ATDNTD聖書註解刊行会〕p9798)<古来、三位一体論は、アウグスティヌスの著者にもみられるように「つの実体、つの位格」(una substantia, tres personae)というように定式化されてきた。しかしこの規定にはギリシャ的な実体概念が入っており、これはヨーロッパ的には最上の表現であるにしても、東洋的な精神風土からは、さらに深めて考え直す余地があるのではないかと思う。(「聖霊の神学」八五頁以下参照)

 

 

 

最近私は西田哲学の影響もあって、父と子と聖霊は、共に啓示の神として、御言葉や絶対有という把握はふさわしいと思われるが、しかしにしてなる神の根拠は、「つの実体」ではなく、むしろ「絶対無」ないしは「空」(不実体)という表現に転回させるべきだと考えるようになった。>(小野寺功氏の論文「インマヌエルと三位一体の場所:西田哲学と滝沢神学」より)

 

ラテン定式の「の実体(本質)にの位格(人格)」に対してギリシャ定式は「の存在につの実体」であると言うと誤りだろうが、そう解釈することは可能ではある。ネメシェギ神父の『父と子と聖霊』(南窓社)には「つの本質、つの自存者」と書かれている(p136194他)。

 

ここで東西、両神学の相違についての記述を同掲書から引用しておく。

 

<アウグスティヌス以後の西方教会の神学者たちは、彼に従って、三位一体の神秘を説明するのに、御父を出発点とするギリシア教父たちと異なって、唯一の神の本性を出発点とするのが常である。したがって、東方教会の神学は神におけるつの自存者の区別を強調しているのに対して、西方教会の神学はむしろ神における本質の唯一性を強調しているのである。ギリシア教会の神学者たちが、神におけるつの自存者の区別を強調した結果、七世紀にアリストテレスの論理学が東方神学に導入された時、神の本質を、アリストテレスのいうような単なる思考上の類概念の一致しか持たないものとして考え、神論に陥る危険が生じたのである。この危険を克服したのは、ダマスコのヨハネの著作『正統信仰』の中に挿入されている無名の著者によってギリシア教会の神学に導き入れられた「相互内在性(中略)circumsessio」の考察であった。>(p148149)※中略の( )内はギリシア文字で「ペリコーレーシス」。

 

  

 

誤解はしばしば単なる用語に由来していた。言語を絶する事物を叙述する代わりに、われわれがいかにしても十分には表現できないものを、何かの仕方で表現できるように、われわれのギリシャの友人らは、つの本質とつの実体について語ったが、ラテン人たちはつの本質あるいは実体とつのペルソナについて語ったのだ。ギリシア人が、神に近づこうとして、つのヒュポスタセースを考え、神の唯一の、啓示されていない本質を分析するのを拒んだのに対して、アウグスティヌス自身や彼以後の西洋のキリスト教徒たちは、神の統一から始め、それから神のつの顕示を論じていった。ギリシア的キリスト教徒はアウグスティヌスを尊敬し、偉大な教会教父の一人と見たが、彼の三位一体の神学には疑いを持っていた。それが神をあまりにも合理的かつ擬人的にさせたと感じたのである。アウグスティヌスの接近方法は、ギリシア人のように形而上学的ではなく、心理学的でひじょうに人格的であった。(中略)アウグスティヌスは、もっとも若い頃から、有神論的な神学を求めていた。彼は神が人類にとって本質的であると思った。彼は『告白』の冒頭で述べている。「汝はわれわれを汝自身のために創造された。われわれの魂は、汝のうちに安らぐまで安息を知らない!」と。>(K・アームストロング著、高尾利数訳『神の歴史』p165168)※「理論」は「セオリ」、「本質」は「エッセンス」、「実体」は「サブスタンス」とルビあり。山田晶著『アウグスティヌス講話』(講談社学術文庫)では、「一般に、東方教会の神学者たちの間で、アウグスティヌスの評判はかんばしくありません。」(p137)と書かれている。

 

  

 

正統主義者のウィリアム・ウッド師は「エホバの証人」(JW)が聖書で御父と御子とが存在として区別されていることを三位一体批判として指摘していることに対して、三位一体は父,子,聖霊の各位格が区別されるから御父と御子が存在として別であることと矛盾しない旨を述べている。アングリカン・チャーチを除く西方教会の伝統に於いてはそうであろう。各位格には人格的固有性が認められるからだ。しかし聖書には「位格」的区別などないし、「存在」という言葉を使うなら、「」つの位格(ペルソナ)は「存在様態」とか「存在様式」ともいわれ(サベリウス主義の様態論に近づく)、その場合、「存在」は「」の方になる。

 

<二十世紀の神学者のうちで特に、K・バルトは、人格 Person と意識についての現代哲学から、伝統的な三位一体論に関して生ずる危険を指摘している。すなわち、多くの現代人が人格と意識を同一視している。それ故、神におけるつの位格という表現が多くの人にとってつの別な自己意識、したがってつの別々の神々を考えさせる。この危険を避けるために、バルトは、位を指す表現として、位格(Person)ということばを避け、その代わりに、「存在様式 Seinsweise」ということばを用いているのである。アングリカンの神学者の中で、C・ウェルチ Welch は、バルトのこの意見に全面的に賛成しているばかりでなく、人間が祈る時に、「汝」ということばで呼ぶ相手は、神において唯一しかないと言っている。(中略)現代人は、Personという表現を、まさに「行為の中心」という意味にとりがちである。この二人の神学者によると、現代のキリスト者は一般的にサベリオス的唯位神論の誤謬に陥るよりも、神論の誤謬に陥る危険が多い。この危険を避けるために、この二人の神学者も、父と子と聖霊について位格(Person)という表現を用いることを躊躇し、存在様式という語を、用いているのである。私見を述べることが許されるならば、現代のキリスト者は一般に神論に陥るよりも、古代においてサベリオスが唱えたような唯位神論に陥る危険が多いと私は思う。そして、神学者たちが父と子と聖霊を単に神の「存在様式」と呼んだり、また、より深い考察を行なわずに、意識的人間主体と神における位の間の類比を全く否定したりするならば、唯位神論に陥る危険はますます大きくなるのである。>(ネメシェギ著『父と子と聖霊』p246248)※「二人の神学者」とはバルトとウェルチのことではなく、略した箇所で出てくるカトリックの二人の神学者ラバレットとフェルデラーを指す。また、バルトの「ザインスヴァイゼ」の出典は「教会教義学」(BAND ?, 1, 386)。

 

このバルトの「存在様式」(ザインスヴァイゼ)については後述のとおり野呂芳男氏がラテン形式の本来的理解である旨を指摘している。

 

<古典的な三位一体論は、父、子、聖霊が三つの位格(ペルソナの複数)でありながら、しかも一つの本質(substance)である(tres personae in una substantia)としているが、この場合のペルソナは今日のパーソナリティの意味ではない。(〔略〕神学者カール・バルトが言うように神の存在のあり方を言っているものである。だが、この古典的な理解では、父や子や聖霊の個々の(今日の言葉で言う)主体性が失われてしまい、ペルソナがまさに(言葉の元来の意味である、役者が舞台で被る役割の)仮面のようになってしまっていて、聖書の中の生き生きとしたイエスや聖霊の個としての存在感が失われてしまっている。>

(<講義「ユダヤ・キリスト教史」第38回――アウグスティヌスの生涯と思想(1998.3.17)>)

http://www.geocities.jp/yoshionoro/jud-christ-3-17.html

 

 

  

 

ウィリアム・ウッド師の「位格的区別=存在の区別」という論法は、この「存在様式」の考え方からすれば妥当とは言えない。しかし彼自身は学者ではないので、そのようなことはわからないだろう。位格は別個の「存在」ではなく、その「様式」であり、「存在」は「」なる「ウーシア」なのだ。実際、usiaは、ギリシャ語のbe動詞にあたるeimiの不定法einaiの分詞形usaの派生語である。また、「存在」を意味する語として古代ギリシャ語ではeonousia、ラテン語ではesseといわれる。トマス・アクィナスの神学では「ousiaesse」。「存在=本質」であることは、essentiamesseが含まれていることから察せられる。

 

参考URL:http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20111224/p1 

 

 

 

公同の信仰とは是なり。即ち、我等はなる神を位に於て、位を一体に於て礼拝す。されど位を乱さず、本質を分たず。そは御父に位あり、御子に位あり、御霊に位あればなり。されど御父と御子と聖霊の神たることは皆同じ、その栄光は等しく、その神威の永えなるもまた等し。御父の然かあり給う如く、御子も然かあり、聖霊もまた然かあり給う。御父も創造られず、御子も創造られず、聖霊も創造られず。御父も量り難く、御子も量り難く、聖霊も量り難し。御父も永遠なり、御子も永遠なり、聖霊も永遠なり。されどつの永遠なるものにあらず、つの永遠なるものなりつの創造られざるものにあらず、つの量り難きものにもあらず、つの創造られざるなるもの、つの量り難きものなり。御父も全能なり、御子も全能なり、聖霊も全能なり。されど全能なるものはつにあらず、全能なるものはつなり。御父も神なり、御子も神なり、聖霊も神なり。されどつの神にあらず、つの神なり。御父もなり、御子もなり、聖霊もなり。されどつのにあらず、つのなり。そは基督教の真理によれば、位を各々神またと告白せざるを得ざればなり。されば公同の信仰によれば、つの神、つのありというを禁ぜられたり。>(アタナシウス信条より)

 

これは東方教会が採用していないはずで、アタナシウスの名を用いているが彼によるものではないらしい。あまりに「」より「」に重きが置かれすぎていることからして西方での作成であることがわかる。ちなみにスウェーデンボルグ派では、この信条の「複数人格の性」を「単人格の性」に読み替えている。「スウェーデンボルグによれば、つの位格(人格)という考え方そのものがおかしいということになる」からだ。http://wwwd.pikara.ne.jp/swedenborg/Lord1.html

 

同様に、「イエス之御霊教会教団」は「イエス・キリスト」の内に「父、子、聖霊」のつの位格があるというワンネス信仰である。私はキリストの内の性ではなく、神(御父)の中に性の方がまだ、聖書的だと思う。しかしいずれにせよ、イエスを神格化することになるなら無用である。イエスを神格化しない形での論(つまり御父と御子との「」を「実体的」ではなく「作用的」とみなすこと)なら聖書的だと言える。

 

 

 

上記引用文中のC・ウェルチの、<人間が祈る時に、「汝」ということばで呼ぶ相手は、神において唯一しかない>という言葉のとおり、信仰に於いては「人格」の神との関係など、精神的にはおかしくなる。実際、自分の生得的「神関係」を言語化すると三位一体とは合わないのだ。無論、人間の精神は決して単純な「」ではなく、精神統一とは言うが、普段は「もう一人の自分」とか「超自我」ともいわれるように、あるいはキルケゴールが『死に至る病』の冒頭で「自己とはひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である」と、デカルトへの反動とでもいうように関係主義的に語っているように、人間精神は他者との関係あってこそ自己足り得るものであり「単」ではない。しかし少なくとも現実的すなわち法的には「人格」である。人格としてはあくまでも「」なのだ。その「人格」をもって他者の「人格」との関係を必要とする。その「他者」は人間には限らず「人格神」ということにもなる。その「神」が「人格」というのでは、いかに「実体・本質」が「」であろうとも精神的健全性は損なわれる。なぜなら「神関係」は精神の深層においてなされる重要な営みだからだ。従って次のように述べながら三位一体を信じるというのは理解し難いし、たとえ論を信じるにしても「」の方に重きが置かれ、「存在」は位にではなく一体と方に言われて然りだと思う。

 

<いろんな神々と称するものがあったとしても、まことの神は我々にとっては一人の方だ。このようなことは、聖書におきましては創世記の始めから書かれています。「はじめに神は天と地を創造された」、と告白の形で述べられています。けっしてこれは、論証とか論争ではなく、“告白”なのです。その神は無から有を創造する神であります。歴史を導かれる。そして、この世の中に存在するあらゆるものに意味を与えてくださる根拠であります。神様とは何か。あらゆる生きているものに意味を与えてくださる根拠である。その神様を信じて生きる。ということが、これは我々の民族の使命であるというのが、ユダヤ人たちの考え方であるわけです。(中略)じゃ、なぜつでなければならないのか。私は、なぜ主人というのは一人でなければいけないのですかと逆に質問するのです。夫というのはなぜ一人でなければいけないのか。何故って、一人と決められているから一人、というようなものでありましょうか。やっぱり本当の深い付き合いというのは、一対であってこそ、本当の深い人格的な関わりというものが生まれてくる。そこに愛というものや、一緒に喜びを共にし、悲しみを共にする、という関係がそこに起こってくるわけです。神々を信じるという具合で、一人では間に合わないから二人、人、ということになるならば、そこには本当の我々の人生のバックボーンになるようなものは無いわけです。>(相馬恵助牧師宣教集より第17回 神とイエス 〔ヨハネ519-29〕)

 

 

 

あるいはまた、「一般的な多面性」と「多重人格者の多面性・多重性」との違いも指摘し得る。以下は岡野憲一郎著『多重人格者』(講談社)6〜7頁より。

 

一般的な多面性が本人の自覚のもとで表現されるのに対して、多重人格の多面性・多重性は、無自覚のうちに現れます。そのため、本人もそれを知らないということが起きます。また、多重人格以外の病理で極端な多面性が生じることもあります。」(p7

 

「人は誰しも、多面性をもっているもの。いつも優しい人が、別の場面で冷たい顔をみせるのは、そう珍しいことではありません。その一般的な多面性と、多重人格者のみせる多面性・多重性は、性質が異なります。」(p6

 

また、<健康な性格だってひとつじゃない――多重人格と「多面性格」>という文章もある。

 

<一般に多重人格が正常ではなく、異常な状態だと考えられるのは、正常な人格は「ひとつ」であるのに、多重人格はいくつもの人格を持っているように見えるからである。(中略)人は状況などに応じていくつもの「ひとがら」を持っているわけだが、それを「多重人格」と呼ぶことはない。(中略)いわゆる「ひとがら」を意味する心理学用語には、「性格」と「人格」のふたつがある。このふたつのことばは学問的にそれほど厳密に区別されているわけではないが、私なりに整理してみると以下のようになる。「性格」は、人の行動や言動に現れる。(中略)人の性格には誰が、どこで、どのように観察するかによってさまざまな側面があり、ひとりの人が持つ性格はかならずしもひとつだけとは限らない。一方「人格」ということばは、その人が示す性格のいろいろな側面をより統合的にとらえるとともに、性格を生み出すと考えられるその人独特の身体的・精神的システムをも含めた意味で用いられることが多い。また、「人格」ということばはその人自身の意識に現れる「自分自身の性格」とも深く関連している。(中略)

 

自己の持つより重要な特徴は、それが強い一貫性を持っているということである。意識の上では自分は昔も今も同じただひとりの自分であり、周囲の環境や自分の行動がいかに大きく変化しても「自分が自分でなくなってしまう」ことはない。こうした自己の強い一貫性を「自己同一性(アイデンティティ)」という。自己の同一性は青年期などに多少ゆらぐともいわれているが、「自分はひとりだけの自分である」という基本的な同一性が失われることは、健常者においてはまず見られない。個人の「人格」を問題にする場合、この「自己」や、その同一性もふくめてその人の「ひとがら」をとらえる場合が多く、その意味で「人格」は各個人にひとつだけしかないと考えられる。>(朝日新聞社編『多重人格とは何か』〔朝日文庫〕p127130

 

「一貫性」という点では、マラキ書3:6「まことに、わたしはヤハウェ、わたしは変わらない。」とか、ヘブル書13:8「イエス・キリストは昨日も今日も、そしていつの世々までも〔変らない〕同じ方である。」とか、ヨハネ黙示録の1:8<全能者にして神なる、現在居まし、かつても居まし、またこれから来る者が、こう言われる、「私はアルファであり、オメガである」。>などはその心理が信仰対象に投影されているとも言えよう。 

 

話を「神」の事柄に戻すが、「ひとつの人格で起きていることを、他の人格は知らないことが多い。互いの人格同士に情報交換が成立していないのである。さらにひとつの人格から別の人格に移るプロセス自体を、当人はコントロールすることが難しい。」(朝日新聞社編『多重人格とは何か』〔朝日文庫〕p69)という点では、キリスト教の三位一体の神は多重人格の神とは言えないだろう。なにせ各位格が相互内在しているというのだから。しかし性格的多面性というわけでもない。

 

いずれにせよ「三位一体の神」などというものは虚構である。それは早い話、後付けの理屈でありその帰結であって、そもそもイエスの神化が発端である。「はじめにイエスの神化ありき」で、三位一体論は聖書全体の神論に辻褄を合わせようと哲学用語を用いて思弁したものに過ぎない。詭弁だから筋が通るはずもないが、公理は「イエスは神だ」であるから、それに聖書全体を合わせた結果がどうであろうと、それはそれでしかない。そこでは論理的整合性は無用とされている。「啓示=神秘、秘義」で思考停止されている。人知で理解し得るのは矛盾の壁にぶち当たるまでである。たしかにそれが「啓示」であるならわからぬことはない。されど「啓示」たる聖書にそのようなことは明示されてはいない。否、ヨハネ福音書の「受肉」を非神話化しなければ、そこから派生される「三位一体」は新約聖書に萌芽あると言えないことはないだろう。しかし私は先在のロゴス・御子の「受肉」というような話は非神話化せずに解することを得ない。

 

そもそも歴史上の一人の人物が神化(=絶対化)された上に、その位格が様々に美化され、(イエスの時代の人々、特に接触した人々にとっては)「見える対象」であったということから「見えない神」に取って代わる存在にまでかかげまつられている(キリスト中心主義)・・・そのことに異和感を禁じ得ないし、キリスト教こそ偶像崇拝を地で行っている宗教ではないかとさえ思われる。イエスが「神の子キリスト」であるとする表現ならまだ解釈の余地はある。これは現代の世界観に於いて捉え直せば、イエスその人の特別な選び・召しということの象徴的表現とみなすよりほかにない。しかしこれを実体的に捉え、実体的「神の子」の「受肉」を史実と認めることは知性の犠性である。「神の啓示」というものが客観的にあるから、それに従って人知を抑制するというのではない。それは「神の啓示」なるものが客観的に存在するかの如く前提されている、思い込みにすぎない。「神の啓示」は「人の要請」と不可分である。プロテスタントは教会権威主義に非ず!

 

ちなみに『岩波キリスト教辞典』では「三位一体」について次のように書かれている(執筆者は宮本久雄というカトリックの人であることはバイアスの点で注意を要する)。

 

<[ギ]Trias[ラ]Trinitas[英]Trinity キリスト教神学において神の内的構造と働きとを示す教義で、父なる神と子なる神と聖霊なる神とが、各々3つの自存者(ヒュポスタシス)であり、かつ1つの実体(ウーシア)として完全に一致・交流することを意味する(以上はギリシア定式).ラテン定式では、3つの位格(ペルソナ)が1つの本質であると表現される.神学的にはそれは父による子の派遣・受肉の根拠を示し、哲学的にはキリスト教的絶対者の三位一体的(以下的)交流性や歴史・他者への関与性を意味する.さらにこの表現は個人の祈りや教会の典礼、洗礼、信仰告白の際に用いられている.

 

【源泉】この表現と用法の源泉は聖書に求められるが、「三位一体」の表現自体は教父時代の造語である.キリストの受肉という観念のない旧約聖書には、受肉の根拠である神の的性質を示す箇所はない.そこでは唯一神教的な考えの下に、神より下位の存在者(天使、王、イスラエルの民など)が神の子と呼ばれたり、神の力などが霊と呼ばれている.(中略)

 

【歴史的展開】教父はユダヤ教的神論とギリシア的多神論および、グノーシス主義との間に、受肉したキリストを根拠に三位一体論を確立した.つまり彼らは受肉しない(アサルコス)ロゴスと霊から性をとりあげず、あくまで受肉の現実から思索し始めた.その際プロティノス哲学のヒュポスタシスと3つの原理などの概念を用いた.三位一体論は、父と子の同一本質関係(ホモウーシオス)を示したニカイア公会議や聖霊論を提示したコンスタンティノポリス公会議を通して5世紀のカルケドン公会議までに成立した.西方ラテン世界ではアウグスティヌスが心理学的哲学的に論を展開した.他方で性の聖霊の発出をめぐる、いわゆるフリオクェ問題が東西両教会分裂(1054)の契機となった.東方教会は父の唯一原理性(モナルキア)から発出する各位格の自存性を強調するが、西方教会は聖霊を父と子を結ぶ愛として位の同一本質性を強調する.>(P454455

 

ここでは、ギリシャ定式が「3自存者、1実体」で、ラテン定式が「3位格、1本質」と訳されていることが問題。

 

<私たちの慣習的な語り方でペルソナという語はギリシャ人の慣習的な語り方では実体であると理解されなければならない。ギリシャ人私たちつのペルソナ、つの本質または実体と語るように、つの実体、つの本質と語るのである。(7・4・8)>(〜アウグスティヌス著、中沢宣夫訳『三位一体論』)http://blogs.yahoo.co.jp/masatakahamazaki/archive/2010/12/17

 

ここでは、ギリシャ定式が「3実体、1本質」で、ラテン定式が「3ペルソナ、1本質(または実体)」となっている。これならギリシャ定式の方が筋が通る。人間とて「父」と「子」は個体として別「実体」だが、人としての「本質」は同じだからだ。一方、ラテン定式の「本質=実体」というのは、日本語としてはカテゴリーエラーにはならないだろうか?ギリシヤ語の「ウーシア」はラテン語翻訳で「スブスタンティア」と「エッセンティア」の2語が当てられたが、この異なる2語が同義に扱われることになったのはアリストテレス哲学における「実体」の2種の定義によると云われる。この点は複雑であり納得には至らないが、そこまで理解し得なければ、「三位一体」を理解することにはならない。ただ表面的に「3つの自存者(または位格)、1つの本質(または実体)」の単純化された説明で、わかったような気になって口にしたって無意味であり、そんなものは信仰告白でも何でもない。結局、信徒たちはわかったふりして実はわかっていない「信仰告白」をお題目のごとくさせられているのである。すなわち教会現場では「三位一体」など無用である。

 

 

 

ユダヤ教に対抗して、キリスト教の神が「」であることを強調する必要のある東方のカッパドキアの教父たちのアイデアであり、「聖霊のうちにこそ位がある」と主張する東方神学の答えだ。すでに西方のテルトゥリアヌスは、つの実体がつのペルソナをもつというアイデアを提示していたが、これにならってなるもの(ウシア)がつの位格(ヒュポスタシス)をもつと考えたわけだ。そしてなるものと、その「現れ」とは同一の実体(ホモウシオス)ではなく、相似した実体(ホモイウシオス)の関係にある。>

 

http://polylogos.org/books/saka10.html

 

アウグスティヌスはessentiasubstantiaというラテン語には意味上の区別はないと考える。そして彼は、後者よりも前者の方を好んで用いる。彼によると、神はessentiaである。essentiaesse(存在)から出たもので、神は存在そのものであり、従ってessentiaとは存在そのもの、不変的存在、つまり本質を意味する。この点、アウグスティヌスは、神に1つの本質とそれぞれに独自な3つの実体を認めたカパドキアの神学者たちとは異なる新ニカイア派においては、3つの実体の方に重点が置かれるために、アレイオス派が批判したように、多神教的傾向を拭い切れなかった。もっとも、3つの実体という代わりに、3つのペルソナ(tres personae)という表現もすでに使用されていた。しかしアウグスティヌスによると、三位一体の神を「1つの実体、3つのペルソナ(una substantiatres personae」として説明することも十分ではない。なぜなら、ペルソナ(位格)は実体を有している筈で、しかも実体とは不変でなければ意味をなさない。そのため、実体が1つで、ペルソナが異なるということは考えられない3つのペルソナは3つのい互に異なる実体、ないしは本質をもってはじめて存在し得る。従って、三位一体の神を、1つの実体、3つのペルソナと理解して表現することは適切ではなく、これでは神になってしまうアウグスティヌスは神がつの本質である点は認めるが、同時に3つの実体とか3つのペルソナである、とみなすことには多神教になる危険を感じたのである。(中略)神の位性を強調すると、神に傾く危険性があることに気付いているアウグスティヌスは、まず神の一体性から出発する。彼によると、神は常に自己同一的である。この神が的であるというのは、あくまでも自己同一的である神自身の内部においてのことである。アウグスティヌスにとって、唯一の神とは常に神なのである。そして彼は三位一体論を、1つの本質、3つのペルソナ、という伝統的図式で把えず、関係(relatio)という概念を導入し、1なる神の中における3つの関係とみなし、更に、このなる神の人間及び世界に対する関係にも注目する。そして、神のうちにおける性を、人間の精神における性と対比することを通して説明しようと企てる。>(〜宮谷宣史氏の論文「アウグスティヌスの三位一体論」)

 

http://ci.nii.ac.jp/els/110004500395.pdf?id=ART0007280862&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1372460564&cp=

 

上記の文章には矛盾がある。それは「三位一体の神を、1つの実体、3つのペルソナと理解して表現することは適切ではなく、これでは神になってしまう」ということは必ずしも当らないと思うし、要は「神」なら「神」でもいい・・・というかそれがギリシャ教父の本音であったろうと思う。彼らは現実には3者の神、「神」を認め信じていたのだ。しかしそれが「神」教と矛盾すると批判されることを考慮して「本質」においては「」となし、しかも「従属」説は斥けた。しかし実際には「御父」が「御子」より「大」であるという区別は認められている。それを詭弁を弄して「同等・同一」と矛盾しないと言ってきただけ。「3つの実体とか3つのペルソナである、とみなすことには多神教になる危険を感じた」というが、「多神教」の定義にもよる。「一神教」の「」は少なくとも数直線上の「1」ではない、つまり「単」ではなく「太一」であるから、必ずしも「」位格と矛盾しない。「多神」も「本質」を「」とみなせば、「単神」とはならないが「唯一神」たり得るのだ。そういう論理もあり得る。

 

アウグスティヌスが考えたという「1つの神の中における3つの関係」とは、「神」を実体概念ではなく関係概念とすることを意味するのでは?彼はラテン教父だが、ギリシャ教父において実体は「3つ」の方であろう。また、アウグスティヌスが思いついたという、「神はessentiaである。essentiaesse(存在)から出たもので、神は存在そのものであり、従ってessentiaとは存在そのもの、不変的存在、つまり本質を意味する。」ということだが、それなら、「1つの存在、3つのペルソナ」といった定式にはならないのだろうか?ousiaを「実体」とか「本質」と訳すのではなく「存在」と訳せば、一神教と矛盾しないことがよりわかりやすかろう。 

 

アリストテレス哲学においてusia(「存在する」という動詞の分詞形)は「実体(substantia)」と「本質(essentia)」とに区別されていなかったが、ラテン語の訳されると二義に分けられたらしい。

 

そうなるとラテン定式の「つの位格(persona)とつの実体・本質(substantiaessentia)」をギリシャ定式と対応させようとすれば、「つの ?(hypostasis)とつの実体・本質(usia)」ということになり、hypostasisの訳語(?)が問題となる。否、そもそも対応などしないのだ。上記引用のとおり、「七世紀にアリストテレスの論理学が東方神学に導入された時、神の本質を、アリストテレスのいうような単なる思考上の類概念の一致しか持たないものとして考え神論に陥る危険が生じた」という。usiaはそのようなものとして考えられ、つの実体に重きが置かれたのだ。 

 

「ヒュポスタシス」というギリシャ語の概念を、著者は「迷子になった概念」であると言う。ギリシャのさまざまな抽象概念は、そのままの語形をとどめたり、あるいはその他のヨーロッパ語に翻訳されたりして、近代語の中に吸収されていった。しかし「ヒュポスタシス」は、それがキリスト教教理にとって「父・子・聖霊」というそれぞれの要素の個別性を表す重要な概念であったにもかかわらず、「ペルソナ」という別の語義を持ったラテン語の訳語が与えられることによって、いわば「迷子」になってしまったのである。「ヒュポスタシス」は、時の持続,存在を得ること,起源,基礎,主題,目的,財産などの意味を持つ多義語であるが、この語が持つ基本的なイメージは、「流動的な液体が固体化したもの」「流動のうちのいっときの留まり」といったものであるという。ギリシャの教父たちはこの概念を用いて、三位一体を「つの実体(ウーシア)とつの位格(ヒュポスタシス)」だと表現した。しかし、このギリシャの定式に対して西方ラテン世界が最終的に対応させたのは、「つの実体(エッセンチア)とつの位格(ペルソナ)」であった。「ペルソナ」はラテン語で「仮面」を意味する言葉であり、ギリシャ語の「ヒュポスタシス」と対応するものではない。語義から考えると、ギリシャ語の「ヒュポスタシス」にはラテン語の「スブスタンチア」が、ラテン語の「ペルソナ」にはギリシャ語の「プロソーポン」が対応するのが正確なはずである。「ヒュポスタシス」が「ペルソナ」に対応させられたのは、ギリシャの定式が成立する以前に西方においてすでにテルトゥリアヌスが「つのエッセンチアとつのペルソナ」という区別を確立していたこと、ラテン語においてエッセンチアとスブスタンチアは明確に同一のものとされており、「つのエッセンチアとつのスブスタンチア」という言い方が極めて困難だったこと、異端のネストリウス派が「プロソーポン」を重要な概念として使用していたことなど、さまざまな原因が考えられる。しかし、論争の歴史的経過の後に残ったのは、「ヒュポスタシス=ペルソナ」という「<個>の誕生」を意味する定式であった。「ヒュポスタシス=ペルソナ」という、矛盾を孕んだ「カテゴリー」の成立。著者はこの事態を、次のように肯定的に評価している。「ヒュポスタシスは自然学的・形而上学的な存在論のことばであり、ペルソナは劇場と法律と日常生活のことばである。この両者が等置されて、つの同じ対象を指すとされるとき、その対象には、複雑な交響が生じ、多様な倍音が生じる。キリスト教思想の中核となったペルソナ=ヒュポスタシスは、このようにして極めて豊かな概念となった。」(「書評 坂口ふみ『<個>の誕生』 大田俊寛)

 

 

 

<東方教会において、御父、御子、聖霊はつの「ヒュポスタシス」と名づけられます。「ヒュポスタシス」は、語源的に申しますと、「ヒュポ」(もとに)「スタシス」(立つもの)、すなわち、「もとに・存立しているもの」であり、ここから「土台」、「基礎」、「実体」の意味になります。「ヒュポスタシス」は、プロティノスの哲学において重要な概念です。すなわち、この哲学によれば、まず第に、者」(ト・ヘン)が在ります。これは万物の根源であるとともに万物を超越するなる者です。そこから「理性」(ヌース)が出てきます。理性から「魂」(プシュケー)が出てきます。この「者」、「理性」、「魂」がプロティノス哲学のつの根本原理です。それをつの「ヒュポスタシス」といいます。ギリシアの教父たちが、御父、御子、聖霊をつの「ヒュポスタシス」と名づけたとき、少なくとも用語の上で、それをプロティノス哲学から受けたということは確かであると思われます。しかしその内容は非常に違ったものになっています。すなわち、プロティノスにおいては、このつのヒュポスタシスは、者から理性、理性から魂へと下に向って流出するものであって、決して無条件に同じものということができません。それで、御父、御子、聖霊の関係をそのままプロティノスのつのヒュポスタシスにあてはめますと、根源的な神はただ御父のみであり、御子と聖霊はそこから生じた、ないしそれによって最初に造られた者として、勿論すぐれた被造物ではあるにしても御父と同じ意味で神といわれるべきものではないと主張するアリウス派の異端におちいります。教父たちは、御父、御子、聖霊がそれぞれ独立の、相互に区別された性格のものであることを表わすために、プロティノス哲学から「ヒュポスタシス」という用語をかりましたが、他面、アリウス派の異端に同調することを避けるために、つのヒュポスタシスが神としては全く同じ本質(ウシア)のものであることを強調し、そのことを表わすために、「ホモウシオン」(本質を同じくするもの)ということばを用います。かくてギリシアの教父たちは、三位一体を「つのウシア、つのヒュポスタシス」として表現することによって、キリスト教の神をアリウス派やプロティノスの神と区別するのです。このように、ギリシアの教父たちによって把握され表現されたキリスト教の神は、ネオ・プラトニズムからその用語をかりながらも実質的にはそれと明確に区別された三位一体の神であったことに疑いはありませんが、それにもかかわらずその思考方法において、ネオ・プラトニズムとの親近性を有するように思われます。その親近性は、つのヒュポスタシスの関係を考えるにあたって、まず御父を最も根源的なる神とし、そこから御子が生じ、御子を通して聖霊が発出するというように、父→子→聖霊と、つのヒュポスタシスの発出の関係をいわば直線的に考える点にあらわれています。その関係はプロティノスの、者→理性→魂という関係に似ています。もっとも、プロティノスにおいては、この直線の方向は下降の方向ですが、三位一体における直線の方向は下降ではありません(それを下降と取れば、アリウス派の解釈になります)。そこに両者のちがいがありますが、それにもかかわらず、三つのヒュポスタシスのうち、御父のヒュポスタシスが最も根源的であり、したがって御父は三つのヒュポスタシスという根源のなかで、いわば「根源の根源」と考えられる点で、プロティノスの一者との共通性を現わしてきます。これに対して、御子というヒュポスタシスは、われわれが「それを通して」御父に到るべき「道」となり、聖霊は、「それにおいて」われわれがその道をすすむことのできるいわば「光」のようなものとなります。つまり、われわれは聖霊において、御子の道を通って、御父に達するという仕方で、三位一体なる神は、われわれとの関係を持つことになります。この点にも、魂から理性へ、理性から一者への上昇を説くプロティノスの哲学との共通性がみとめられます。ところで、このようにしてわれわれとかかわりを持つ三位一体なる神との関係において、われわれの究極目的は、聖霊において御子を通して、根源の根源たる御父に達することになります。御子なる神は「みことば」(ロゴス)なる神であり、われわれに直接語り給う神であり、したがってわれわれに知られる神ですが、御子を通して語りたもう御父なる神は、隠れたる神であり、ある意味で「ことば」を超越する神であります。したがって御子なる神を道としてその道をきわめてゆくとき、究極にはすべてのことばを絶する超越の体験においてその隠れたる神にふれるということになります。そしてこの超越の体験によってふれることのできた神もはやことばをもって表現できない、すべての理性による認識をこえたものであります。それゆえそれはただ否定の仕方でしか表現できないことになります。東方教会に属する神学者たちが、多く否定神学的傾向を有し、その思惟方法においてアリストテレスよりもネオ・プラトニズムに近いのは、上に述べられたような三位一体の把握の仕方に由来するところが多いと思います。またこのような否定神学的傾向にもとづいて、西方教会において異端視されたエックハルトの思想が、現代の東方教会の代表的神学者たるロスキによって、高く評価され、深い共感をもって受け容れられる理由も理解されます。

 

東方教会において、三つのヒュポスタシスの関係が、御父→御子→聖霊というように、いわば直線的な発出の線を辿るのに対して、西方教会において、三つのペルソナの関係は、御父と御子とから聖霊が発出するというように、いわば逆三角形のかたちを取ります。>(山田晶著『アウグスティヌス講話』〔講談社学術文庫〕p127131

 

 

 

『岩波キリスト教辞典』より「ヒュポスタシス」の項からの引用(〜大森正樹)

 

ヒュポスタシス [ギ]hypostasis 原義は「起源」「支持」「根底」「実体」「沈殿物」「個体」などで、文字どおりにはラテン語のsubstantia(下に立つもの)に当たる.すなわち、それ自体で存在する、個的な実体をさす.すでにプロティノスはこの語を多く使い、キリスト教思想はそこから大いなる着想を得た.カルケドン公会議以降、この語がウーシア(本質)やピュシス(本性)と厳密に区別されていくが、基本的には生き生きとした個的実体を表す語である.つまり具体的な現実存在という意味をもつ.そこでヒュポスタシスはウーシアとは区別された神の位格(ペルソナ)を意味するようになった.このような経過を通して、三位一体論では神は3つのヒュポスタシスをもつが1つのウーシアであると定義され、一方、キリスト論においては、キリストには人性と神性の2つのピュシスがあるが、1つのヒュポスタシスであると述べられる.つまりキリストにおいては人性と神性がヒュポスタシス的に結合している.以上のようにヒュポスタシスはヘレニズム的遺産を引き継いで、キリスト教に取り入れられ、三位一体論やキリスト論において重要な役割をもつことになった.⇒プロソーポン>(p935

 

  

 

三位格(父、子、聖霊)が「神性」(=「神」としての本質)を共有しているという意味で「同質」であり、その点では上下・優劣は無いという意味で「同等」であると考える点では、東西両教会は一致しているが、「神性」ではなく三位格の「関係」においては、東方教会は「同等」とは認めず、西方教会はこちらも区別せずに「同等」と認めるという点で違いが出るということ。(~当サイトの14「本源者」参照)

 

こうして見ると三位格の何もかもが「同質」であり「同等」とする西方教会に比べたら、「関係」だけでも「同等」とはせず、御父を「源」とする東方教会の方が聖書的であると言える。  

 

 

結局、ギリシャ教父の「三・一」(至聖三者)とラテン教父の「三位一体」とは言語の違い、パラダイムの違いにより対応しない、齟齬をきたしているというところが真相だろう。八木氏の言うギリシャ教父内での「場所論的」感覚と「存在論的」思考とのズレ、およびラテン教父の「人格主義的」思考との違い云々以前の問題かも知れない。

 

 

 

三位一体の解釈には、「主語、述語、繋辞」というのもある(〜「<書評>小野寺功著『絶対無と神:京都学派の哲学』)。主語になっても述語にはならないのが「神」ということであろう。

 

八木誠一氏は、聖書が示す「神・キリスト・聖霊」は、救いの働きの「主体・内容・伝達」に対応するとして、「ここには古代教会において教義にまで定式化されたいわゆる三位一体論の原型があるとみることもできよう。」と言いつつも、「もっとも新約聖書の中では三位一体論は、神・キリスト・聖霊の三位がその本質においてはひとつであり、超越者のあり方においては三であるというような、定式的表現を得てはいない。」と明記しておられる(『パウロ』〔清水書院〕p190191)。八木氏が新約聖書に「三位一体論」の「原型」を認める発言をされていることは、一見すると正統派の神学者や牧師が、新約聖書には文字通りの「三位一体」はないがその萌芽はあり、それが教義に発展して正統教理の「三位一体」になったなどと言うのと同様に感じます。しかしそうではないことは、八木氏は同掲書の次の頁で、<「ナザレのイエスが神である」(人即神)というのは誤謬>であると明言しておられることでわかります。また、「もともと神・キリスト・聖霊は体というよりは用というカテゴリーで捉えられているのだと思うんです。ところが、ギリシア哲学からの影響がキリスト教に入ってくると、神は体(実体、最高の存在)になってくるんです。しかし、元来のカテゴリーとしては『旧約聖書』、ユダヤ教、原始キリスト教を通して、超越者は用のカテゴリーで考えているほうが強いと思います。」(『キリスト教の誕生』〔青土社〕p152)と述べている(※「体」と「用」に傍点あり)。「用」とは「働き・作用」ということです。ヘブライ語では「神」の「ヤハウェ」という名が動詞「ハーヤー」に由来し「エフイェ」(出エジプト3:14)と関連するのだから元々は体言ではなく用言だというのはわかる。

 

また、「ギリシャ語を語る東方教会を中心として成立した三位一体論・キリスト論は場所論的概念であること、しかし、これを実体論的また人格主義的に表象すると理解できなくなる(中略)人格主義的言語では、三位一体は、父なる神、子なる神、聖霊なる神のそれぞれが人格的存在とされる傾向があるから、三神論に傾き易いのである。>(『イエスの宗教』p26)とか、<三位一体についてはさまざまな考え方があるが「実質上は同一で、あらわれ方としては三だ」ということと了解してよかろうと思う。>(〜「講演? 神」)とか、「新約聖書には三位一体ということは自覚的に語られてはいないけれども、事実上三位一体の関係が語られている。だからこそ古代教会の教義の発展において、三位一体論の形成が可能だったのである。」(『キリスト教は信じうるか』p197)と述べている。

 

<私は、キリスト教はローマ中心に発展するようになってから新約聖書の宗教とはかなり違うものになってしまったという認識を持っている。それはつまり、現在キリスト教といわれている宗教の直接の起源は、新約聖書ではなく、ローマの国教となったキリスト教だということだ。キリスト教の変質とは、よくいわれるようにキリスト教がヘレニズム化した(まずは東方教会が、本来持っていた正当な認識をギリシャ哲学の存在論的概念で表現しようとした結果、表現と実質に齟齬を来し、実体論的思考が優位に立つようになった)というだけではなく、「人格主義」の一面に偏したということである。>(八木誠一著『<はたらく神>の神学』(岩波書店)p4

 

 <神を人格として表象し、さらに子なる神、聖霊なる神をも人格(ペルソナ)として表象したら、三位一体は三神論となり、両性論的キリスト論は二重人格となってしまう。人格主義的神学の用語で三位一体論とキリスト論を語ることが困難な所以である。>(同、p119120

 

 

 

上智大神学部教授・イエズス会司祭の岩島忠彦氏は私の質問に対して、「ヒュポスタシスとウーシアは、ニカイア公会議時点では同義に用いられていたようです。つまり存在の原理と切り離して個別の原理としてだけ用いるようになるには時間を要したということでしょう。他方プロソーポンは、役割の意味もあったものの、個別の原理の意味も早くからあったと思われます。様態説やネストリオスなどがプロソーポンを用いて混乱を招いたので、プロソーポンが正当化されたのは三位一体教義成立直前だったのではないでしょうか。ギリシア語圏が三神論に傾き、ラテン語圏は様態説に傾くとは必ずしも言えないように思います。ギリシア語圏が父のみが源にこだわり続けたこともあります。今日のペルソナ概念の議論で、バルトやラーナーの意見は、極端と一般に評されているかと思います。ペルソナ概念が早い時期(テルトゥリアヌス)から個々を区別する意味で用いられていたわけですから」と答えておられる(岩島氏の返答では、ギリシャ語の「ウーシア」のラテン語訳は「スブスタンチア」だけであるとのことで「エッセンチア」が同義的に用いられたことには否定的だが、アリストテレスの哲学では両語が同義で用いられたと云われており、それゆえに「ホモウーシオス」は日本語で「同一の本質(essentia)」とも「同一の実体(substantia)」とも訳されるのではないか)。

 

私がこの岩島氏の返答内容で最も重視しているのは、「ギリシア語圏が父のみが源にこだわり続けたこともあります」という部分。岩島氏はそのことを、文脈的にみて「ギリシア語圏が三神論に傾」いたことを否定する根拠として出しているが、私見では逆であって、東方教会が「父=源」にこだわるということこそ、「子」や「聖霊」(聖神)と明確に区別している証拠である。しかも前述のとおり、「神性」の面では「同等」であるとしながら、このように「関係」の面では「父 > 子」の関係が見てとれる(ヨハネ14:28)。「子」であるキリストはあくまでも「父」より「生まれた」存在であり、全く「同等」などとは言えないと考えて然りであり、その点では西方より東方がより聖書的であると感じられるが、東方の非福音的教理は「テオーシス」(神成・神化)および「テオトコス」(マリアに対する「神の母」を意味する称号。「生神女」と訳される。「テオ(ス)」〔神〕+「トコス」〔産む者〕)に如くはない。正教ではアタナシウスからグレゴリウスへと受け継がれるに及んで過激化したのではなかろうか。

 

久松英二氏の論文「カッパドキア三教父の霊性(その一)−カエサレイアのバシレイオスとナジアンゾスのグレゴリオス」から引用する。

 

「新アレクサンドレイア学派の筆頭アタナシオス(中略)は、この交換思想をさらに明確にし、神の子が人となったのは、人が神の本質にあずかることができるためであった、という命題を自分の思索の中心に置いた。」・・・ここまでは新約聖書の所謂「栄化」の福音、聖徒が「神の子」とされることの言い表しだと言える。問題はその後だ。同じ三教父のグレゴリウスでもニュッサのグレゴリウスとは別人だが・・・、<グレゴリオスにとってキリスト教のすべては、キリストがわれわれの肉において人間の生を自分のものとしたように、われわれをキリストにおいて神の生を生きるようになさしめることである」。彼によれば、人間の目標は「神の子、いやむしろ神そのものになる」ということである。彼はアタナシオスのように「聖なる交換」思想に立脚して、人間に与えられた教育課題を次のように言い表す。「われわれもキリストのようになろう。彼がわれわれに等しい者となったので、われわれも彼によって神となる。それは、彼がわれわれのために人間となったからである」。したがって、御子の受肉の目的は、人間の神化であり、かつ受肉は人間神化の前提条件である。神がまず人間の本質を全面的に受け入れたという事実なくして、人間が神の本質に与ることは不可能だからである。神は人間の死すべき本質をあますところなく自分自身に受け入れ、自分の本質に一体化させた。この救済論的関心事を背景にすると、グレゴリウスの有名なキリスト論の根本命題の意味も容易に理解される。すなわち、もし神に「受け取られなかったものは癒されない。しかし、神と一つに結ばれたものは救われる」。この人性と神性の結びつきについて、グレゴリウスは、キリストの受肉によって、神の本質と人間の本質とが彼のうちで一種の「混合」(mixis)ないし「結合」(krasis)が起こったと考えている。そしてこれによって、人間の本質はまったく変容された。つまり、「人間は神に混ぜ合わせられて、神と一体化した。それ以後、より強いものが勝利を収めた。それは彼が人となったのと同じ度合においてわれわれも神となるためであった」。>http://ci.nii.ac.jp/naid/110007043953

 

太字部分については、遠藤周作氏の『沈黙』の場合は逆で「神」(と言うより「キリスト」)が「私」の主体となって生きること(→<『沈黙』の最後に、「おまえの人生を通して私が語っているので、沈黙しているのではない」と書いたのは、いま言ったXの中で私が神の働きの証明をしているのだということを言いたかったからです。>〔『私にとって神とは』(光文社)単行本 p30p2021参照〕)であり、これは八木誠一氏の場所論的神学にも通じるし、小田垣雅也氏がみずき教会の説教「復活について」の中で、「絶対無」は「生きられるもの」であるから「あえて言えば、人格」だと述べていることに通じると思う。これは西谷啓治氏の「宗教における人格性と非神格性」(〜『宗教とは何か』〔創文社〕p80)で述べていることに小田垣氏が触発されて書いたものとであり、引用というか敷衍というか・・・そういうもののようです。遠藤氏が「働き」という神理解において影響を受けた人物であると思われる八木誠一氏は、この小田垣氏の「絶対無=生きられるもの=人格」という主張に関する私の質問に対して、<有とか無とか絶対無とかいう存在論的概念を使うと事柄を明晰に語ることができなくなります。「生きられる無」とは要するに「はたらき」のことで、はたらきには働きの主体、内容、伝達の三面が区別されます(バルトの三位一体論はこれに近い)。はたらきには「はたらきかけ」とそれを受けて実際に「はたらく」ことと両面があり、前者は「人格主義的」言語で、後者は「場所論的」言語で、比喩的に語られます。>と答えてくれた。いずれにせよ、「神」または(神格化された)「キリスト」を自分の生の主体であるかのように語ることは汎神論的であり神秘主義的であって私の信仰にはなじまない。私はこのようなギリシャ的「神(との)関係」感覚は持たないし拒絶反応するので、私の実存主義的信仰には無用である。

 

とにかく、上記の「テオーシス」と「テオトコス」の両者に共通することは、ひとことで言って神格化である。同じ「人間神化」の考えではあれ、ギリシャ正教の場合と日本神道の場合とは違いがあるようだが、アタナシウスは、「神が人となったのは、人が神になるためであった」と言ったそうで、ヘブライ的伝統からすれば聖書からの逸脱となろう(もっとも異教的意味の「神格化=アポテオーシス」とは区別される)。「テオーシス」の典拠とされる?ペテ1:4については、私は神性を与えられることではなく、終末論的に聖霊に満たされることであると解する。

 

東方教会の「父=源」という考え方については、アレクサンドリア学派の代表的神学者であったオリゲネスの思想的影響を意味すると思われるがこのことと、矢内原忠雄氏が<アタナシウスはなお、「父は子より大なり」との主張を把持したのであった。三位一体論が完成されたのは、アウグスティヌスの不朽の名著『三位一体論』によるのであり、この書において、父と子と御霊との全く相等しい神性が論定されたのである。>(〜「ヨハネ伝講義」No.56の「訣別遺訓に現れた三位一体論  一 三位一体論とは何か」)と述べていることと関連性があるのか、ないのか?それは、上記引用の『アウグスティヌス講話』の赤字部分を読めばわかること。さらにネメシェギ神父の前掲書にも次のような表記がある。

 

ギリシアの教父たちは御子も聖霊も決して被造物ではなく、つくられたものではないことを極力主張し、「つくられざる者」であることをくり返し述べているが、父を子と聖霊の「原(?)」と呼び、子と聖霊を「原よりの者 (略)」と呼ぶのが常である。それに反して、ラテン教父たちは「原 causa」ということばを被造物に対する神の関係を表わすためにのみ用い、父と子と聖霊の「源 principium」と呼ぶのである。>(p179 注〔136〕)※その本文は次のとおり。「グレゴリウスは、原である父、直接にその原よりの者であるひとり子、直接に原よりの者であるひとり子を通して原より発出する者である聖霊を区別している。」(『父と子と聖霊』p158

 

※引用文中の「原(?)」の( )内はギリシャ語で、「アイティオン」、次の「原よりの者 (略)」の略した部分もギリシャ語で、「アイティアトン」と読める。

 

<キリストを神と見なすと、父なる神との関係が必然的に問題となる。オリゲネスは、父と子との関係を、当時の諸教会の神学的伝統や合意を踏襲しながら、「子は、父に源を有し、すべてを父から受け取っている」という御子従属説的な方向で理解しようとしている。>(〜「(a)父と子と聖霊」)http://www.geocities.jp/studia_patristica/jret19.htm

 

東方教会に、ニカイア公会議で異端とされたアレイオス派の支持者が多かった背景にもこのオリゲネスの思想的影響があったと思われる。オリゲネスはイエス・キリストの神性を認めているので、私にとってはその従属説も特に注目に値するものではない。ただ、流出説には関心がある。正統主義者の歴史神学教師・関川泰寛氏の論文「セラビオンへの手紙におけるアタナシオスの聖霊論」では、「アタナシオスは、三位の一性に関する思想を基本的にはオリゲネスから継承しているが[Laminskiから]、そのオリゲネスですら、聖霊理解に従属的傾向を持ち込むことを免れえなかった[shaplandから]」と言われている。そしてアタナシオスは、御父を「源泉」、御子を「川」、御霊を「飲む」と言っている。アタナシオスの段階で後の正統教義である「三位一体」論が成立したわけではなく三位の区別について、また「ホモウーシオス」に関しても御父と御子との関係だけではなく、その二者と御霊との関係など説明が不十分な点は他の神学者によって弁証されてゆく。ただ、ペリコレーシスについてはアタナシオスも認識していたといわれる。http://homepage3.nifty.com/wordansp/W&S3.pdf#search

 

 

 

<(ヴァレンティノス派は、)不可視で名づけることのできない高みに、潜在した完全なアイオーンなるものがあると言い、これを「原初」とも、「原父」とも、「深遠」とも呼ぶのである。

 

              (エイレナイオス『異端反駁』I.1.1

 

このようにヴァレンティノス派は、至高神のことを「原父」と呼んでいる。それは確かに「父」なる神なのだが、しかしただの「父」ではない。それはあらゆる父的存在の原型となるものであり、ゆえに「原父」と呼ばれるのである。>(大田俊寛著『グノーシス主義の思想 <父>というフィクション』〔春秋社〕p124)※引用文中の「原初」に「プロアルケー」、「原父」に「プロパトール」、「深淵」に「ビュトス」と、それぞれルビあり。

 

 

 

アンモニオス・サツカス(175242頃)が如何なる人であつたか之を詳かにし得ないのであるが、オリゲネスは彼を師として哲学を学んだのであり、後者より約二十年遅れてプロティノス204269)は同じ師に就くことによつて其までの宗教的プラトニズムを神秘主義的に深め体系的に完成した。従つて彼とオリゲネスとは恐らく直接の交渉はなかつたにも拘らず、殆んど凡ての点に於て傾向を同じうしてゐる。両者ともに一から多が生ずる下向的過程を説き、また多から一に帰るべき向上の道を教えた。プロティノスは固よりそれを流出説を以て説明した。一者から理性(ヌース)出て、理性から霊魂(プスュケー)が生じ、其は質料によつて此の現象界を現ずる。之を可能にするところのもの即ち現象に形相を与えるところのものは理性の模像とも云ふべきロゴイ(ロゴスの複数)である。>(〜有賀鐡太郎著『オリゲネス研究』〔全國書房版〕)

 

流出説に関して、ネメシェギ神父の前掲書でテルトゥリアヌスに関して注目する記事を引用しておく。

 

<テルトゥリアヌスは神をも物質的なもののように考え、父と子が「実体の点で一つである」ということを「父は実体の全体であり、子はその実体の全体から流出した部分である」という意味で説明しているのである。したがって、テルトゥリアヌスは「神の実体」を十分な哲学的理解なしに、いわば、前哲学的に考えているのである。彼のいう実体は、父をなし、更に子をなしている素材のようなものである。このように前哲学的に考えると、テルトゥリアヌスの言っているように、子の実体は父の実体から流出している神的な素材であるという理由で、子は父と一つであり神であることを主張できるであろう。しかし、テルトゥリアヌスの説明を正しい哲学に照らして考察するならば、彼の説において父の神性も、子の神性も、また父と子の一致も正しく説明されていないことが明らかである。なぜなら「部分」を自分から流出させる存在者は決して不変な絶対者、すなわち神ではありえないし、神の「実体の一部分」といわれている子も神ではありえないからである。>(p118119

 

 

 

野呂芳男氏は、<「ヨハネによる福音書」(1030)にある「私と私の父とは一つである」というイエスの言葉は、決してカルケドン信条が言うような本質での一致を語っているものではなく、自分は父の意志をこの地上で実践しているのだから、自分が行い語っていることは父の意志そのものである、というイエスの主張なのである。従って、私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト、聖霊の三者を信じていればよく、(聖書には元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。ティリヒも主張していたように、イエスが神を透けて見させてくれるガラスのような存在であるというのが、キリスト論であるならば、私にとっては、聖書のイエスを通して透けて見えるものは、神ご自身というよりは――人間に神ご自身が全部分かるなどとは私には信じられないので――神の人間に対する意志であろうと思える

 

古典的な三位一体論は、父、子、聖霊が三つの位格(ペルソナの複数)でありながら、しかも一つの本質(substance)である(tres personae in una substantia)としているが、この場合のペルソナは今日のパーソナリティの意味ではない。(後で述べる神学者カール・バルトが言うように)神の存在のあり方を言っているものである。だが、この古典的な理解では、父や子や聖霊の個々の(今日の言葉で言う)主体性が失われてしまい、ペルソナがまさに(言葉の元来の意味である、役者が舞台で被る役割の)仮面のようになってしまっていて、聖書の中の生き生きとしたイエスや聖霊の個としての存在感が失われてしまっている。>(<講義「ユダヤ・キリスト教史」第38回――アウグスティヌスの生涯と思想(1998.3.17)>)http://www.geocities.jp/yoshionoro/jud-christ-3-17.html

 

と述べているが、この中で特に重要であるのは、三位一体論が「聖書には元来存在しない信仰」であると明言していることです。

 

さらに野呂氏は、<『実存論的神学』の中では、私はレオナード・ホジソンなどの唱えた社会的三位一体論(social trinity) を非難して書いたが(295 頁)、実のところ今の私はそのような三位一体論であれば受け入れられるのではないか、と考えるようになっている。彼によると、父・子・聖霊という三人格は、それぞれが心理的な人格の中心を持った三者であり、この三者が互いに自由意志をもって協力的に作り出した友情的な(あるいは、愛の)一致が、古典的な一体の意味なのである。このような三位一体論であるならば、私がここで言ってきた、「三者は聖書に言われているが、しかし、(古典的な三位一体論で言われている)一体は聖書では言われていない」ということとも矛盾しないで、私も三位一体論を信じることができるのではないか。聖書の中の三者が人間を救うために、一致協力していることは疑い得ないからである。>(同)と結論付けている。

 

 

 

三位一体についてもうこれ以上、神秘だとか奥義にしてはならない。教理主義者たちの主張どおり三位一体がそれほどに重要だったなら、神は既に使徒たちを通し、これに対する解釈を定立しておかれたであろう。>云々はよいが、結局、「三位一体論争の終結は聖霊充満だけである。」云々の体験主義には正統主義の洗脳に利用され「知性の犠性」である「盲信」を結果するおそれがあるので、もちろん、このような立場にも反対である(webサイト「NEW IMMANUEL」の「三位一体の奥義」の「3.三位一体の完成は聖霊充満だ」より)http://www.new-immanuel.jp/3alpha_j/alpha-13.htm

 

 

 

小田切信男氏は、前田護郎氏の「三位が互に独立であって、しかも三位のまま一体をなし、三位のそれぞれが唯一神の属性であるとするのが、キリスト教の正統信仰である」という言葉について「唯一神の属性が父・子・霊の三位のそれぞれでありますなら――すなわち、父さえも唯一神の属性であるなら、唯一神を含めた父・子・霊は、ややもすると三位一体ではなく、むしろ四位一体となる傾向を示すように思われる」と述べておられる

 

(『キリスト論・ドイツの旅』p312)。

 

 

 

岩島忠彦氏は、次のように述べている。

 

一体である多様な神 
三位一体は、父と子と聖霊の三者の間に存する愛と生命の交わりが唯一の神の本質にほかならないということを教えています。これは単なる神の内での問題で、私たちの信仰と無関係の事柄であるというのではありません。私たちはキリストを信じることを通して、父に向かうことができ、聖霊の働きによってだけ、イエスを神の子キリストと認めることができます。いわば父は隠れたる神、子は見える神、聖霊は内から生かす神であって、信仰者にとってどのかかわりも大切であって、一つが欠ければ他のかかわりも成立しません。このような多様なかかわりを通してのみ、私たちは唯一の神を信じ、この方といのちの交わりを持つことができるわけです。

 

真のプルラリズムとは
私たちのいのちの目標である神が、このように多を前提とする一者であり、一者に依拠する三者であるならば、それに至るこの世でのいのちの営みにもまた、同様の法則が支配しているのだと思います。一つの事柄が多様性を排除し、別のあり方や価値を認めないとすれば、それは本物のユニークさを示していません。また、多様な事柄がそれぞれの独自性を保ち、その意味を持ちうるのは、それらがどこかで相互につながり、一つの意味を構成しているからでしょう。真の多様性は一性を志向し、真の一性は多様に展開します。 >(〜「三位一体の神と多様性の時代」)http://homepage3.nifty.com/t-iwasi/np/04.html  

 

実に、歴史的状況捨象のキレイゴトであり観念論にすぎない。「三位一体」のドグマ自体が歴史に於いて「一つの事柄が多様性を排除し、別のあり方や価値を認めない」ものとして機能してきたにもかかわらず、その歴史的情況を捨象して、ただ観念として「一体である多様な神」だの、「多を前提とする一者であり、一者に依拠する三者」だのと言われているわけです。こういうのはすべて詭弁である。本当に「三位一体」が現代社会の「多様性」に関係があると言うなら、まずもってその「三位一体」の解釈の多様性をこそ認め、「正統」的定義(=と言っても一つの聖書解釈にすぎない)と異なる解釈の立場に「異端」のレッテルを貼るようなことはやめるべき。およそ「多様性」というのは「三位一体」の如き閉鎖的なドグマには似合わない言葉だ。「多様性」は外へ開放してゆく文脈に於いて語られる言葉であり、「三位一体」は逆にキリスト教の内へと閉じてゆくもの。「三」がそれ以上の数に増える可能性はなく、「多様性」を象徴するものとみなすにしても無理がある。もし、「三位一体」のドグマが外に向かって開かれているというなら、他宗教の神観,神論との関係を考慮して然り。そうであれば、神論との関係で「多様性」という言葉が相応しいのは、「三位一体の神」ではなく「万有在神論の神」と言えるだろう。聖書的にも根拠があって他宗教と共通の要素があるのはこの神観しかない。もちろん、真実の「神」は「語り得ないもの」ですが歴史的社会的現実に意味ある存在として聖書の「啓示」があり、特にそれはイエスという史的人物の選びによって与えられている。これが第一義であり、自然啓示は第二義。

 

その意味では、私は以下の岩島氏の言葉に(その意図はわからないが少なくとも表現としては)共感する。「新約聖書で『神』は、この『わたしたちの主イエス・キリストの父なる神』(ローマ156他)以外の何者でもない。当然、イエス自身も自分を『神』とすることはなかった。にもかかわらず、である。彼は、言う。『わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか』(ヨハネ149)と。もちろんこれはヨハネ福音書の文章である。ヨハネは、イエスが神の『言葉』であり、『栄光』の現れであるとの前提で語っている。それにもかかわらず、この言葉は、生前のイエスに当てはまる命題である。イエスが神を示したのは、自分の実存においてであり、他のどのような手段においてでもなかったのである(マタイ1127参照)。」(『福音と世界』20103月号)

 

「今、 伝統的表現で言おう。ナザレのイエスにおいて『神の自己啓示』が生起した。神が自分自身の存在をありのままに示した。のみならず人間に自己を与えもしたということから、ラーナーは『自己譲与』という言葉を使っている。この、自己啓示・譲与は、上に述べた通り、次のような構造を示している。唯一にして絶対他者である神は、絶対的他者であるナザレのイエスという特定の人物において、自分自身をその究極的現実において示した」(同上)

 

この文言に於いては、必ずしもイエスを神格化せずとも「神」の「自己啓示」として受け取れる。しかし神格化は断じて認められない。それは「神」と「人間」との厳然たる境界を超える例を、たとえ歴史上に唯一の人に於いてであるにせよ認めることは自分の神信仰の根本として出来ないからだ。  

 

聖所にとどまって至聖所まで進まないというわけにはいかない。その間の垂れ幕であるイエス・キリストを抜けて奥の院におられる「神」へと向かわなければならない。そうでないと自分の人生が聖書につながってこない。キリスト教の正統的立場では神格化された「(主イエス・)キリストどまり」になってしまい、それもまた「神」が後退してしまう。単純に、「キリスト」教だからキリスト論が重要であるとも言えるが、キリスト教の「キリスト」は教祖でもなければ「神」でもない。小田切信男氏が、「キリスト教こそはある意味で仲保者宗教といわれるべき」(『福音論争とキリスト論』p84)と述べているとおりで、「キリスト教」の「キリスト」は本尊・本丸の信仰対象ではなく、そこに通じる「道=媒体」を示すものであり、「キリスト教」は「創唱宗教」でも「自然宗教」でもなく、「仲保者宗教」としてのネーミングである。だから、この名称が示すことは、「キリスト教の神は、このイエス・キリストによらなければ知ることが出来ない」(同、p87p111参照)ということ。これに関連して、前記の宗教学者の島田裕巳氏の著書『ほんとうの親鸞』(講談社現代新書)の中に次の一節がある。

 

<キリスト教を開いたとされるイエス・キリストも、彼が説いたのは、すでにユダヤ教において説かれていたことばかりである。イエスは、その核心にあるとされる隣人愛の教えを含め、独自の教えを説いたわけではない。生前に弟子の集団ができつつあったものの、ユダヤ教と異なるまったく新しい宗教を作り上げようという意図は本人にはなかった。キリスト教が生まれるのは、イエスの死後、その神格化が進められた後のことになる。(中略)親鸞もイエスも、そしてムハンマドも、生前はあくまで媒介者、メディアに徹しようとした。彼らには、新たな宗教を作ろうという意図もなければ、教団を組織しようという意思もなかった。ところが、それに続く人間たちが、メディアであった存在を媒介者にとどめておかず、信仰の対象となる開祖や宗祖に仕立て上げていく。(中略)カリスマや超人が求められ、作り上げられるのは、その後に続く人々にとって、自分たちが信奉する存在の価値が高まれば、自分たちのあり方そのものが正当化されるからである。自分たちは正しい信仰をもっていると、外に向かって言い張ることができるからである。その欲望が、カリスマや超人を生み出していく。>(p232249

 

東大古典学派聖書学の「(史的)イエス止まり」も、キリスト教正統派の「(神の子)キリスト止まり」も、どちらも私にとっては与し得ないものである。何故なら、イエス・キリストが指示する先にこそ、自分が信じ仰ぐべき本当の「唯一絶対神」が存在するからだ。

 

 

 

「永遠の命、それは唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになることです。」(ヨハネによる福音書 小林稔訳)

 

「それゆえに、あなたがたは互いを受け容れなさい。ちょうどキリストもまた、神の栄光のために、あなたがたを受け容れて下さったように。」(ローマ人への手紙15:7青野太潮訳)

 

「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものなのである。」(コリント人への第一の手紙3:23 青野太潮訳)

 

キリストの頭は神であるということを、あなたがたに知っていてほしい。」(同上 11:3 同訳)

 

「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(同上、15:28 同訳)

 

<パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている>(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』p5)

 

「一コリント一五章においては、キリストの支配がはっきりと神の主権の前で限定されたものとなっている。」(同上書 第一部 5章)

 

「事実、神は唯一人(ただひとり)、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(テモテへの第一の手紙2:5 保坂高殿訳)

 

 イエス・キリストの人格についての問に対する答は「神」とか「人」とかと答うべきではなく、ただ「神の子」と答うるのが聖書に基づく答であります。「神の子」は先在においても、受肉しても、死して甦って昇天しても、常に「神の子」と呼ばれて充分でありまして、それが聖書の語るイエス・キリストなのであります。>(小田切信男著『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト)- 北森嘉蔵教授との討議を兼ねて- 』〔待晨堂書店〕p15)

 

<キリスト・イエスはいかなる意味においても自らを「神」として物語り且つ示しはしなかったのであります。たとえ神にひとしいとまで語られても、神への従属的地位を外す事がなかったのであります。>(小田切信男著『福音論争とキリスト論』p145)

 

「万物がキリストに帰一して、然る後に神に帰一することが、救済の完成でありますから、キリストの業の終る所がある訳であります。そこにキリストの仲保者性の限界があると言えるでありましょう。」

(同上、p215)

 

<神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は「イエス・キリストのみが――全知なる神である」となって「父なる神」を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。>(同上、p263)

 

神はやはり唯一の神――父なる神――であっても子なる神とも、また純粋の霊だけの神とも語られません。要するに三位一体論そのものが、神を客観的にあげつらう論理として既に思い上った論理であります。そしてこれは、イエスも使徒も語らなかった神観であり、明らかに異教化したものと言えましょう。キリスト教界はこの三一神観という信条・教理についても福音の光で検討を加え、多神化しようとするキリスト教の異教化を徹底的に排除すべきではありますまいか。>(同上、p366)